引用
「どうせ今日も同じような一日だろう」という気持ちでいたら、人生はおもしろくありません。
「今日はどういうことにあるかわからない。よし、ひとつチャレンジしてみよう」という気持ちで過ごせば人生はおもしろいのです。
私見です。
昨日、20代~40代まで自分の身体や自分の周りの変化に疎く、変化も嫌がっていたフシがあって、50代になって身体のちょっとした不具合がきっかけで、やっと気づきはじめた、という話をしました。
メディアか何かで、生きるか死ぬかの大病がきっかけで人生が変わった、(というか変えた)という話を聞いたりします。
深刻ではないのですけど、私のそれは、ちょっと似てるかもしれません。
えーと、人生の残り時間を計算したり・・・。
身体の変化に敏感になったり・・・・。
仕事や家族の変化も少しは見るようになったし・・。
で、変化を徹底的に細かく観察するということで「川の流れ」の話を連想しました。
引用
ひとつ例をあげてみましょう。ある朝、川を渡り、その日の夕方、再び同じ川を渡ったとします。夕方渡った川は、朝渡った川と同じでしょうか? 朝の川の水のセットと、夕方のそれとは違うものですか? 2つのうちどちらかだけが「川」なのですか、あるいは「朝の川」と「夕方の川」という2つの川が別々に存在するのでしょうか? もし、昼にもその川を渡ったとすれば、「昼の川」という別のものが存在するのでしょうか?
このことをよく考えてみてください。時間ごと、瞬間ごとに、川の水はまったく違うものに変化していませんか? では、「川」という実体はどこにあるのでしょう? 川岸や川底のことでしょうか? 結局「これが川です」とか「川」などと、明確に指摘できる実体は見つからないんですね。「川」というのは、絶え間ない水の流れにつけられた単なる名前にすぎないのです。
よーく観察すると、実体の根本の話
「勝義諦」や「世俗諦」や「施設」の話になりそうですけど、そこまではやりません。
川の水は全く違うものに変化してる、ということです。
ということは、注意して観察すると
身体も昨日と同じ体調なわけないですし、会社のルーチンワークも本当は何かしら微妙な変化があるかもしれません。
で、変化に気づいたら、とっとと変化に合わせたほうがいい、という話なのかもしれません。
だって「いやだ!」と思っても変化は止めれないし、なら自分をそれに合わすほうが手っ取り早いです。
うむ、瞬間瞬間、周りも変わりますけど、自分も変わります。
自分も変わるというお話です。
引用
生きることは「流れ」ですから、変わらない「自我」は成り立たないのです。自我が出たとたん、ワガママになって、物事がみえなくなって、頑固になって、不幸になってしまう。自分の気持ちがあるから、ものすごく苦しみが生まれる。
変わるのはイヤだ!ってのは、煩悩や貪瞋痴が混ざっているようです、ここからはなるべく離れていたいですね。
先生すみません
私は「チャレンジ」というよりも「手っ取り早い」ということでやっているようです。
「見違える人生」には、ほど遠いです。
『ブッダの教え一日一話』11月20日で1年経ちます。
さて、次は何をしましょうか?