引用
いいことをしようとしても、相手から「結構です」と断られてしまうことがあります。思わず力んで、お年寄りに席を譲ったりすれば、断られることでしょう。それはいいことをするのに慣れていないからです。
脱線のうえにバリバリの私見で恐縮です。
なんていうか、善行為は大事だと思うですが、例えば「周りからよく見られたい」とか、「ちゃんとした仏教徒だと思われたい」とか、根本の動機が汚れている善行為は見せかけになるのでしょうね。
自分自身も何かしらこれに陥っている場合があるかもしれません。
ベースが「悪」の上で行う善行為はヤバイですね、さらに心を汚すことになりそう。
ベースが「悪」なのに、本当は「悪いことをしない」ということだけで精一杯なはずなんですけど、わからずに、善行為を求めるのでしょう。
参考になる法話
引用 ガツンとズバリです。
悪徳行為というのは簡単にわかるのですが、善徳行為というのはいつどういう時にどのようなことをすれば善徳になるのか、考えるとよくわからなくなります。
それはすばらしいことを疑問に思ったと思います。善徳行為とは何か、それが我々にわからないのが当たり前なのです。偽善的に考えればいくらでも思いつくでしょうが、まじめに考えると、わからないはずなのです。なぜかというと、人間は本来、悪(貪瞋痴)しか知らないからです。いくら「善いことをしているんだ」と胸を張っている人でも、実際には、悪いことばかりするとうまくいかないから善行為らしきことをしているだけで、本物の善は知らないのです。悪という材料で善をつくっている状態です。だから人間のやることは世界中迷惑ばかりで、よく見ると生命の役には立ってないでしょう? 皆、本当は「自分さえ良ければそれで十分だ」と思っているのです。自分の役に立つならば親切にするが、役に立たない人なんかはどうでもいいと。その本音を出すとうまくいかないんだから、本音は言わないだけです。
そうそうこれなんですよ
続けて引用
それでお釈迦さまは、否定形を使って具体的に説かれるのです。「悪は貪・瞋・痴、善は不貪・不瞋・不痴だよ」と。それを見ると、「不」という否定形を入れただけです。それがすごい智慧なんです。ブッダ以外には語れない真理です。「施し」「慈しみ」と言うより、「不貪」「不瞋」と言った方が、いちばん具体的なんです。自分が生きている上で、欲が出てくる、怒りが出てくる。それと戦ってみなさい、ということなんです。怒りが出そうになると、怒りが現れないようにがんばる。欲を抑えようとがんばる。だから本物の善行為は派手ではない。ずいぶん質素です。自分の不善との戦いなんです。他は何もする必要ないんです。それだけでたいへんです。善いことをしようとがんばるのではなく、悪いことをしないようにがんばる。そうすると、私たちに、本物の善が経験できるのです。それが善徳になるのです。
俗世間的な善行為を探し回るよりも、本当は不善との戦いで手一杯なはずなんですよね。
で、悪いことをしない経験を積みましょう、です。
引用
善と悪は、己の心を中心にして理解するものです。汚れた心は悪で、清らかな心は善です。しかし、智慧が完成していない我々の心は汚れているので、悪しか理解できないと思った方が良いのです。魚が陸の世界を知り得ないことと同じです。それで我々は、心に絶えず生まれてくる悪の感情をなくす努力をする。その努力によって、何か新たなことを経験するでしょう。それが、善というものです。
うむ、力んで善いことをしようするより、自分の心の悪いところに気づくほうがいいような気がします、それならちょっと出来そうです。
うむ、テキストの内容からかなりずれてしまったような気がします。
バスや電車内で席を譲るのは、一般的な道徳ということで。
私は出来ていない人間なので、たぶん声をかけずに、その席を離れるだけかな、と思います。
テキストの内容からずれてしまいましたが、いろいろなことを考えるきっかけになる本です。