引用
実は、欲と怒りというのは同じコインの表と裏です。表は欲です。欲が生まれると、裏側には怒りが一緒に生まれていて、欲がうまくいかないと怒りになります。
欲がある人は。「私は怒りません」とは言えません。条件がそろえば、すぐ怒りが起こります。
欲がかなわなくなってしまったとします。
そのとき、怒りが出てきます。欲があると怒りが出てくるのです。その怒りは憎しみであったり、嫉妬であったり、落ち込みであったり、いろいろです。
私見です。
先日は(例えば)家内が亡くなったら私はどういう状態になるか、という話をしましたが、次は自分の子どもが亡くなったら私はどういう状態になるか?ということで・・。
勝手に死なせて、ゴメンです。
でも、こういう極端な状態を想定するとなんだかわかりやすいです。
で、悲しいかな、絶対あり得ないという話でもないので・・。
たぶん悲しんで泣いてしまいますね。
いなくなると、私が困るのですよ。
いてほしいというエゴ(欲)があるのですね。
で、欲がかなわない状態になったので悲しみが出てくる。
で、悲しみは怒りの感情です。
うむ、欲と怒りは表裏一体です。
よくわかります。
でも、この欲と怒りの状態を仏教はOKとしません。
で、連想したのはこの本
施本の『箭経』が載ってます。
施本の『箭経』より引用
私の国(スリランカ)のお母さんたちも、自分の子どもが死んでしまったら、その日はやっぱりかなり泣きます。きついことはきついのです。そこで私たち僧侶が葬式に行って、「いい加減にしなさい。これから葬式ですよ」というと、すぐに泣きやみます。彼女たちも泣くことに意味がないということは知っているのです。けれども、やはり自分の子どもだから、なかなかそのような賢い分別はできません。とはいえ、葬式が終わるまで泣かない。立派だと思います。弔いの儀式は全部やる。それが終わって、私たちが出ていくときにはまた泣き声が聞こえてきます。だって遺体を持っていくのですからね。これが見ていられないのです。けれども次の日には、なんのことなくお寺に来ます。
彼女たちは、子どもを忘れるのではなく、悲しみを忘れる、悲しみを捨てるのです。その代わりに自分が何をすべきかということをきちんと理解しています。たとえば、自分にちょっとお金があるなら、「子どものために」という気持ちでお寺に何かお布施したり、みんなのためにバス停に屋根を造ってあげたり、そうした善行為をして、子どもがあの世でも幸福になってほしい、と、回向するのです。
うむ、貪瞋痴の感情を弱めるヒントがありますね。
で、続けて引用
仏教で教えているのは、「忘れよう」ではなく、大変知的レベルの高いことなのです。ただ「泣くなよ。悲しむなよ。誰でも死ぬことが人生だ」と言うのです。
刺さった矢を引き抜くのです。
うむ、世のありようを見ると、誰でも死ぬし、自分も死ぬし、この当たり前の世のありようと、自分の「欲」と「怒り」、なんの関係あるの?と問うてる感じがします。
今日は箭経に脱線してしまいました。
下記の本にあります。