引用
「我感じる、ゆえに我なし」です。なぜならば、感じることは瞬間で変わるのだから。新たな我が生まれるためには、今の我が死ななくてはいけないのです。瞬間に変わらないと、感覚は成り立ちません。一時的に我があると仮定しても、その我は瞬間的に変わります。一定して変わらない、実体的な「我」を仏教では否定します。
後略
私見です。
あれほどお釈迦様と先生は「自我」はない、とおしゃっているのに、へなちょこ仏教徒の私はいまだにそれを実感できません・・・。
うむ、やっぱりこの本
上記の本、ずばり第一章は 「無我」の理解を困難にするもの。です。
本書では、「我」=「アートマン(魂)」の話がほとんどになります。
で、「魂とは実在すると信じられているもの」で「その存在が証明できないもの」
で、長い歴史の中で「魂はある」に洗脳されちゃったんでしょうね。
引用
このように、宗教・哲学・文学・民話などのすべてが、魂=「我」があるという立場で語られてきました。私たちは数千年の間、「魂はある」という思い込みの世界で生きてきて進化したのです。
ですから、私たちの頭の中や遺伝子は、お釈迦様の語られる「無我」を理解できるようにはなっていないのです。一般常識的な立場では、無我を理解することができません。「私たちには無我を理解できるだけの知識や能力ない」ということです。
うむ、遺伝子レベルの洗脳ですね、私もその一人です。
遺伝子レベルの洗脳されてますけど、どうすればいいでしょう?
下記にそのヒントがあります。
thierrybuddhist.hatenablog.com
うむ、キーワードは、「苦、無常、無我」になりますけど、ポイントは「無常」ですね。
無常から取り組んでみたらどうでしょう・・。
前にも書いたような気がします。
引用
テキストでは「無常という心理をとことん理解してないと、対象についてクールな心は生まれないのです」とあります。
藤本先生の本では、預流果に至ると無常がわかる、とあります。
3つの煩悩が断たれますので、そのとき無常を体験するのでしょうね。
無常を体験すると欲も弱まってきます。
先生のテキストの言葉の意味もわかります。
無常は欲を弱めるし、無我の理解も進めることができるかもしれません。
で、また副読本に戻ります。
第二章の項目より引用
貪瞋痴の感情が「自我」「霊魂」「魂」という錯覚をつくる
「私がいる」「自分がいる」という実感を持ってしまうのは、ごく普通のことなので何も目くじらを立てるほどのことではありません。「それは正解ではないのですよ」「ちょっと惜しかったですよね」という程度です。
問題は、私たちが貪瞋痴の感情と練りわせて、「自我」「霊魂」「魂」という錯覚をつくることです。
私見です。
自分がいるという実感ぐらいにとどめておけばいいのに、これに貪瞋痴を練ってしまうと、なんだか悪いものができそうです。
貪瞋痴については、自分なりに習っているので、少しは気づくことができそうです。
遺伝子レベルで無我の理解はできませんけど、「悪いことはしない」は努力してみたらどうですか、とおしゃっている本です。