引用
前略
それが社会的な地位であろうが、名誉であろうが、どうでもいい話でね。あるいは「覚りを目指すことと社会的な成功は別なんじゃないか」とか、そういう世間が思っていることは、「買い物に行ったら、どんな袋に入れてくれるのか」を心配するような無駄な心配です。
私の最終的な答えは「買い物袋に困るなよ。あなたの人生は、ホームレスという買い物袋に入れられても大丈夫だ」というものです。
後略
上記の文章は下記の対談本からの参照になります。
上記の本の気になる部分の引用です。
スマナサーラ
私たちの仕事は、やる気をできる範囲で引き起こしてあげる。だからといってすべての生命がやる気を出すのは、絶対にあり得ない話なんですね。とにかく、「あなたは精神的に安定した人間になりなさい」それだけなのです。言い方として病気が治りますよ、社会で成功しますよ、などと言う場合もありますけど、本質的に社会で成功しようが豊かになろうが、権力があろうが、どうでもいいことです。
テキストの
「覚りを目指すことと社会的な成功は別なんじゃないか」は、どういう意味でしょうか?
すみませんが、また私見説明です。
買い物袋とは、なんていうか、これ「かぶり物」ですね。
「かぶり物」の話が下記にあります。
気になる部分を引用
わたしたちは法衣を着なくても、「立派なかぶりもの」をつけようとします。いろいろなかぶりものを身につけます。会社や組織の名前、肩書き、学歴というかぶりものです。体の美しさや、才能や財産も含まれるでしょう。それは、ありのままの自分を隠そうとしたり、立派だと認めてほしいから着るのです。
買い物袋やかぶり物はたぶん同じ意味ですね。
これらは俗世間の「我々が気にしているいろいろ」を指すのだと思います。
だから
「覚りを目指すことと社会的な成功は別なんじゃないか」も、気にしてることのひとつですから、これもかぶり物ですね。
で、仏教は基本的にかぶり物、買い物袋については、まったく興味がありません。
どうでもいい という立場ですね。
で、2年ほど前、かぶり物について書いてました。
かぶり物、買い物袋についての、かなり根本的な話です。
かぶり物、買い物袋の話はできますけど、その中身の自己紹介ができないのですよ。
ちょっとショックです。でも、これが私です・・・。
仏教はかぶり物、買い物袋から自由になるための教えですね。
詳しくは、上記の本やリンクをお読みください。
本日はかぶり物の話に逸れてしまいました。