引用
「政府」という概念があります。
政府は、どこかにあるわけではないのです。
国会は政府ではありませんし、閣僚も政府ではないのです。総理大臣も天皇陛下も政府ではないのです。
各個人が自分に与えられた仕事を、憲法に従って守っているだけです。首相に「あなたは政府ですか?」と尋ねたら、「違います」と答えるでしょう。
自我もこのような概念です。
見えるもの、聞こえるものなどのさまざまな情報をひとまとめにするための、便利な言葉以外の何物でもありません。
私見です。
うむ
クルマの例えを思い出します。
クルマがあるのですけど、タイヤはクルマではありません、ライトもクルマではありません、ハンドルもクルマではありません、これらの部品が組み合わさって出来たものがクルマになります、クルマという実体は無いのですね。
で、次はアビダンマの勝義諦と施設(勝義諦以外 世俗諦)の話を思い出します。
以前勉強したことを引用します。
勝義諦は
自性(性質)が変わらないもの、ブッダの一切智の所縁となるので勝義諦と言われる、涅槃以外は無常で常に変化しているが、名色それぞれがもつ性質は変わらないという意味。
四勝義法
心
心所
色
涅槃
施設
世間一般に真理だと言われているもの、勝義諦でいえば名色だけがあり、男、女、人などは存在しません、世俗諦的にいえば、男、女、人は存在します。
男、女、人、は概念なのでバラバラにしたら存在しませんね。
クルマも同じです。
で、人間も自分の自己紹介でさえできないのですね。
下記リンク
thierrybuddhist.hatenablog.com
上記では、男性は「大学生」「男」・・・と答えますけど、世俗諦の概念を答えることになります。
上記の男性の世俗諦を全部取っ払ってしまうと何があるのでしょうか?それが勝義諦でしょうか?
詳しくは上記リンクをお読みください。
ですから、勝義諦や施設(世俗諦)の話を覚えて、あてはめていくと、自我は概念であるし、どうやら無いみたい、と頭ではわかるような感じがします。
それにしても、世俗諦に振り回されてる生活をしているなあ、と実感します。
今日は、勝義諦、世俗諦の話に逸れてしまいました。