oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

59 一切の行為の衝動は苦 『一瞬で心を磨くブッダの教え』

引用

前略

だから、生き続けるために「苦」が必要です。苦があるからこそ、苦をなくそうと努力します。それが生きることです。

後略

 

 

私見です

 

例えばお腹がすく、ってのは、苦の感覚ですね。

すごい空腹は、なんだか切ないです。

で、コンビニでパンを買って、一口食べる。

あら、不思議、すごく美味しくて、なんだかいい。

すごい空腹感はここで消え去ってしまったのですね。

苦がなくなった、と思ってしまう。

下手すると、幸せな感じさえします。

でも、お釈迦様は「生きることは苦」と説いていますので、空腹感がなくなったところで、苦が消えたわけではないのでしょう。

 

それは錯覚だと、先生は説きます。

下記リンク

j-theravada.net

 

上記リンクより引用

一切の感覚は苦だからこそ、我々はいかなる行為でも極限に達する前に止めて、別な行為に変えるのです。人が楽だと思っている現象は、実は勘違いなのです。お腹が空いていると、苦しいのです。それでご飯を食べる。最初は美味しくて楽しくなるのです。しかし食べ続けると、美味しく感じなくなって、苦しくなる。極限に行く前に、止めるのです。なぜ最初は、楽を感じたのでしょうか? 最初の一口二口で、空腹という苦がいきなり消えたからです。「苦が消えること」を、人々は楽だと理解しているのです。しかし問題は、苦を苦で消すことなのです。生命は瞬間たりとも休むことなく、苦から苦への引っ越しをしているのです。当然、過去の苦が消えることを経験するから、それを「楽」だと勘違いしているから、「生きることは苦である」という、正覚者の話には、素直に納得できない気持ちもわかるのです。

 

うむ、空腹が嫌で、食べるというのは、別の行為の置き換えになるのですね。

苦から楽になったわけでなく、苦から苦へのお引越しということです。

 

でも、食べてるときは、やっぱり幸せを感じてしまいます、苦がなくなった、と思ってしまいます。

 

これが、錯覚というのなら、かなりきつい、すごい錯覚ですね。

なんだか、逃れられそうにない錯覚です。

 

 

ちょっと興味がある部分

 

上記リンクより引用

ブッダが最初に、誰にでも順番でいえば理解しやすい「無常」という真理を語るのです。次に、「無常たるものは苦である」と、語るのです。ですから、無常と苦は同義語だと理解しても構わないのです。無常を理解すれば、苦も理解したことになっているのです。無常について、先月号で簡単に論じました。だからその内容をコピー&ペーストして、「無常」を「苦」に置き換えれば済む話です。

しかし、釈尊が真理を語る場合は、無意味に同義語を使って、わざと説法を長くしているとは思えません。苦という単語を使わなくてはいけない、理由があるのです。無常とは、客観的に一切の現象を観察する時、達する最終結論なのです。苦とは、無常たる現象によって生命が何を体験するのか、何を感じるのか、ということです。「無常」という真理を生命に当てはめると、「苦」になるのです。

 

 

私見の上塗りです。

 

上記だと、「無常たるものは苦である」だと

昨日は、苦は、dukkha だと、「たいしたことない、無価値」だと

 

本当は、上記の意味で済んでしまうのでしょうけど、お釈迦様は生きとし生きるものに対して心配してくれています。

 

だから「無常という意味を生命に当てはめた」のですね。

それが「苦」という言葉なのかもしれません。

 

バリバリの主観ですけど・・

そういえば「苦」というと、生命由来、身体由来の意味のニュアンスがありますね。

 

 

 

かなり長い間「苦あれば楽あり」って言葉に親しんできましたけど、これからは「苦あれば楽に見える錯覚あり」なのでしょう。

 

いまだに錯覚してますけど・・・・。

 

 

かなりきつい錯覚を見てますよ、と教えてくれる本です。

 

一瞬で心を磨くブッダの教え

一瞬で心を磨くブッダの教え