引用
「愛別離苦」が人生です。「怨憎会苦」が人生です。生きることはつらいものなのです。しかし、だからといって、悩む必要があるでしょうか。人がなぜ悩んでしまうのかというと愛着の問題です。
例えば、誰かが「家一軒、壊れましたよ」と騒いでいたとします。それだけなら無関心でいられます。驚きもしません。
しかし、「壊れたのはあなたの家ですよ」と言われたら、その瞬間に気が遠くなって、立ち直ることもできなくなります。
問題は愛着にあるのです。
ひねくれた私見です。
うむ、逆に言えば、愛着がなければ問題は無いのですね。
自分の家が火事で燃えてしまった。
家が火事で燃えるというのは、まあ、よくあることで、ニュースなんかで死傷者が出なければいいな、と思って見てます。
「家が火事になる」というのは、本当は問題ではないのですけど・・・。
「自分の家が火事」というと、自分が問題にしてしまうのですね。
「わー、どうしよ、どうしよ」ってな感じで。
で、ひねくれてますので・・・。
「あ、ははは、燃えてしまった、今夜は親戚んちに泊まろうか、明日からアパートでも探そう」というと、問題は無いのですね。
うむ、私にとってもっと深刻な例にします。
例えば、家人がいきなり死んでしまった。
家人も私も、いきなり死ぬということはあり得ます、生命はいずれ死ぬのですから、死ぬということに、本当は問題はないです。
で。
「亡くなってしまった、明日から新しい嫁さんを探そう」・・・・なら、問題はないのですけど。
そうはならないですね。
ガンガン愛別離苦が襲ってきそうです。
問題になってしまいました。
うむ、ここで、お釈迦様の苦の定義というか、お話を読んだほうがよさそうです。
石飛先生の訳です、じっくり読みたいです。
『サンユッタ・ニカーヤ』56.11(PTS Text,SN.Vol.V,pp.420-424)
漢訳:雑阿含経 三七九 轉法輪經(『大正蔵』二、一〇三下~一〇四上)
コンダンニャ尊者が了解しました、お釈迦様は嬉しかったのでしょうね。
で、お経の中には中道、四聖諦などのお話が出てきます。
四聖諦のうち、苦聖諦は苦の定義みたいに読めます。
上記リンクより引用
【苦聖諦】
5. 比丘たちよ、じつに、<これ>が、苦しみなる、聖なる真理である。 生も苦しみであり、老いも苦しみであり、病気も苦しみであり、死も苦しみである。愁・悲・苦・憂・悩も、苦しみである。
怨憎のものに会いかかわるのは、苦しみである。愛するものとの別離は、苦しみである。求めたものが得られないのも、苦しみである。要するに、五取蘊(人間を構成する五つの集まり)は、苦しみである。
うむ、よく読むと、ぜーんぶ「苦」だということがわかります。
愛別離苦もあります・・。
で、次の集聖諦には、苦の原因が書いてあります、お釈迦様は親切です、わかりやすいです。
引用
【集聖諦】
6. 比丘たちよ、じつに、<これ>が、苦しみの原因なる、聖なる真理である。
再生をもたらし、喜びと貪りをともない、あちこちで歓喜に満たされる渇愛である。これは次のようなものである。欲の渇愛と有(生存)の渇愛と無有(生存のないこと)の渇愛である。
うむ、渇愛(タンハー)は3つあるのですね。
せっかくだから渇愛(タンハー)のお話。
下記リンク
上記リンクより引用、苦の原因と渇愛の定義です。
Idaṃ kho pana, bhikkhave, dukkhasamudayaṃ ariyasaccaṃ – yāyaṃ taṇhā ponobbhavikā nandīrāgasahagatā tatratatrābhinandinī, seyyathidaṃ – kāmataṇhā, bhavataṇhā, vibhavataṇhā.
これは、ビクらよ、苦しみが現れてくる過程についての聖なる真理です。
苦は、渇愛から生じます。渇愛は、再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る、という三つの特色をもち、五官を刺激したい、存在したい、壊したい、という三種類の欲で成り立っています。(律蔵大品「転法輪経」)
渇愛は再生し続け、喜びと愛着を伴い、いつでも心の気に入る、という3つの特性がある。
「再生し続け」というと、輪廻とともについてくるのでしょう、止まることなく続きそうです、ヤバイです。
で、渇愛は、5官を刺激したい、存在したい(生きていたい)、壊したい(殺したい、自殺したい)の3種類があるのですね。
うむ、「火事とか」、「死んでしまう」、とかいう現象に本来なんの問題もないのですけど、ここに渇愛が入ってしまうと、苦になり、問題になってしまうのですね。
とはいうものの、自分のとっての「苦」「問題」なのでしょうけど。
うむ、これも自作自演なのでしょうけど・・・。
いまだに自作自演から逃れてませんね。
問題はどこにありますか?ときいてくる本です。