引用
一般仏教徒は、出家も在家も、朝、昼、晩のお経をあげたり、お供えをしたりという儀式的なことが大好きです。そしてやがて、仏教とはお経をあげたり、儀式を行ったりする宗教だと勘違いするまで発展しました。
後略
私見です。
本日の副読本
片山先生の序文の一部を引用します。
仏教は本来形式的なものを必要としなかったと言える。少なくとも仏教が無我ないし空を標榜するかぎり、形ある「儀礼」は意味を持ち得ない。最初期の仏典に知られる出家生活では、むしろ反儀礼の、もっぱら無所有と独座が強調され、一般的な「儀礼社会」の観念がほとんど現れない。たとえば比丘となるにも、釈尊による「来たれ、比丘よ」(ehi bhikkhu)の一言で事が足りたという。ところが比丘の数が増えるにつれてサンガ、つまり「出家社会」は組織化され、儀礼社会は進んでいった。仏教の個人レベルから集団もしくは社会レベルの実質的移行、変化でもある。儀礼が必要とされ、意味を持つのはここからである。集団生活における「実践」と「教義」のギャップを埋める役割を果たすもの、統合機能を有するもの、それが儀礼である。
テーラワーダも大乗も、けっこうたくさんの儀礼で埋まってしまいましたね。
勝手に思うのですけど、仏教は心を清らかにするのが目的なので、儀礼がきっかけで心を清らかにする、悪いことをしないと決める、とか、実践につながる良いものであれば、やるべき儀礼なんでしょうね。
ただ、文化や習慣的に、これをやらなければならない、この時期にはこれをやらなくては・・。で多忙になり、心がガチャガチャした状態で行う儀礼だったら、あまり良くないかもしれません。
片山先生のおっしゃる通り儀礼は「実践」と「教義」の橋渡しをするものでなくてはいけないと思います、それが出来ていない儀礼だったら、文化的、習慣的なものもありますので、適当に付き合うくらいでいいのかな、と思います。
まあ、何度も言いますけど、五戒を守り悪いことをしない、が大事なので、それが守れない儀礼だったら、適当に距離をおこうかな、と思っています。
個人的には儀礼よりも実践という言葉が好きです。