引用
Khantī paramaṃ tapo titikkhā,
カンティー パラマン タポー ティティッカー
忍耐・堪忍は最上の修行である。 ダンマパダ184偈より
テキストでは、このダンマパダの語句の説明になるのかな?と思ったらそうでもないです、ちょっとひねりがあります。
中略 引用
この世で、物事は私たちの期待するようには起こりません。私の期待だけでなく、他人の期待通りにも物事は進まないのです。
後略
バリバリの私見です。
この語句は、日常読誦経典ですね。
私の好きなお経のひとつです。
下記
上記のお経は、仏教を実践する方がやるべきこと、すべてがコンパクトにまとめられています。
このお経の通りにやれば、かなりいい線に行くと思います。
最初の偈がまたいいですね。
引用
Sabba pāpassa akaraṇaṃ, kusalassa upasampadā,
サッバ パーパッサ アカラナン クサラッサ ウパサンパダー
一切の悪行為をおこなわないこと。善に至る(善行為をおこなう)こと。
Sacitta pariyodapanaṃ, etaṃ Buddhāna sāsanaṃ.
サチッタ パリヨーダパナン エータン ブッダーナ サーサナン
自らの心を清めること。これが仏陀たちの教戒である。
意味的には先生の解説で納得です。
下記リンク
上記リンクより引用
解脱に至るまでの行為はクサラです。人生を本当に巧みに運ぶ人は、解脱まで行ってしまうのです。クサラッサ ウパサンパダー(kusalassa upasampadā)というのは「クサラに行ってください、クサラに入ってください」ということです。ただ「悪いことをするなかれ、善いことをせよ」ということでもないのです。
クサラは日常生活でも使えそうな言葉です。
原理主義的な、きっちりとした悪とか善の区別ではなく、巧みに悪いことは避けて、善の方向へ行ってください、という意味にとりました。
日常生活と原理主義は相性が悪そうです。
で、本題の次の偈です。
Khantī paramaṃ tapo titikkhā,
カンティー パラマン タポー ティティッカー
忍耐・堪忍は最上の修行である。
以前、先生の法話で「カンティー」は「落ち着いている」という意味のことをおっしゃっていました、印象に残ってます。
忍耐とか堪忍だと、なんだか「ただ我慢する」と意味にとりそうになりました、それを防ぐことができたと思います。
下記リンクに説明があります。
「Khantī」と「titikkhā」の意味ですね、納得です。
引用
カンティー(Khantī)には忍耐という意味もありますが、「平安」という意味もあります。つまり、「落ち着いていること」です。いいことがあったからといって舞い上がることもなく、つらいことがあってもくよくよ気に病むこともなく、冷静に落ち着いていること。これはすごく気をつけて実行しなければならないことです。心はいいことがあったら、喜んで舞い上がってしまいます。悪いことがあったらすぐに落ち込んでしまいます。どんなことがあっても混乱せずに、静かな心の状態を守ることはなかなかできないことです。
ティティッカー(titikkhā)というのは「忍耐」です。人はさまざまな苦しみを味わいます。どうしても人生の中ではいいことよりは悪いことの方が多いのです。いくら悪いことに遭遇しても忍耐を持つことがティティッカーです。苦しいことは、予告なしに突然やってきます。自分は何も悪いことなどしていないのに、外からさまざまな災難が襲ってきます。すぐに「なぜ自分がこういう目にあわなければいけないのか」などと不平不満の心が膨らみます。そこで忍耐することが、ティッティッカーです。
うむ、生きていると、悪いこと、いいこと、がぶつかってくるし、ぶつかっても理性的に落ち着いてることが大事だし。
で、いいことよりも、悪いこと(苦)のほうが多いので、悪いことにぶつかっても、貪瞋痴に転げ落ちないように、踏みとどまる努力が大事なのだな。
と理解しました。
で、テキストに戻ります。
引用
自我という錯覚にさいなまれることもなく生きられるならば、その人は安穏で幸福に生きているのです。
このお経の通り
巧みにわるいことを避けて善の方向に行き
落ちついて理性的に物事に接し
生きてれば自動的にガンガンやってくる苦が来ても
貪瞋痴に転げ落ちないように踏みとどまる
この通りやれば、かなりいい線いってる仏教徒になれそうです。
自我の錯覚は避けれるかもしれません。
うむ、お釈迦様のお経はとても意味が深いです。
きちんと自習しなさい、とおっしゃてる本です。