引用
なんの先入観もなく観察すると、自動的に真理を発見することになります。だって、なんの先入観もないのだから。だからお釈迦様が「ありのまま」という単語を使ったのは、そういうことなのです。「ありのままに観ましょう。あってほしいままではなくて」と。仮説があったら「あってほしいまま」ということでしょう?研究する人は、自分が作った仮設が正しいと証明されたら、自分にとっていい結果でしょう?だから、ありのままに観ようということではないのです。
上記の文章は下記の本からの引用です。
キンドルでは「ありのまま」という単語で本の内部を検索できます、電子書籍はこういうとき便利ですね。
上記の引用文の前に先生の話があります。
引用
最初はお釈迦様はみんなと同じく、ある形があって、それに沿って研究していたのです。いろいろな先生たちが究極な境地はこんなものだと言う。だからこそそこを目指して修行してみる。六年苦行したというのは、別に苦行だけではなかったのですが、そういうことなんです。全部失敗に終わってしまうのですね。そうやって、最初からなにか形があって、仮設があって、やっても失敗、ではやり方が間違いだということになる。
中略
実験を6年もやって、「もうこれは意味がない」と理解する。そこで次にぜんぶ捨てて何も仮説なく観察するのです。「おそらくこうでないか」ということはまったくなく、「どうなっているのか」と。
お釈迦様が覚るまでの修行のお話ですね。
自分の日常生活をふりかえると99%仮説というか、自我が混ざっているというか、貪瞋痴にまみれているというか、そういった目で物事を観てますね。
ましてや、自分自身のことさえも「ありのまま」に観てないです。
下記の本を読むとショックです、思い知らされます。
でも、やはり、これではいけないので、瞑想で、自分の心身を実験台にして、ありのままの自分を観る、という練習が大事なのかもしれません。
練習、練習、実践、実践です。