ジャータカのよもやま話

テーラワーダの在家仏教徒 身の回りのことを地味に書いてます。

108 無常は絶対的 『一瞬で心を磨くブッダの教え』

引用

我々は花が散るのを見て、「ああ、無常だなあ」と言ったりしますが、それは本物の無常ではありません。私に言わせると、花を見た瞬間も無常でしたし、それから散っている過程でも無常でした。それに気づかず、咲いている花と散っている花を比較して無常だと言うのは、本来の無常ではないのです。本物の無常は比較でも対照でもありません。無常は無常なのです。いつでも無常です。常にある真理なのです。絶対と相対でいう観点で言えば「絶対的」なのです。「比較的」ではないのです。

 

私見です

やっぱりこの本

良い副読本になります。

縦横無尽すぎる無常の本です。

 

 

 

勝手な理解で申し訳ないですけど・・・。

 

上記では「比較」しての誤った無常観の話でしたが、世間で行われる無常観のほとんどは「好き」「嫌い」の感情を伴っている感じがします。

 

楽しい副読本から引用します。

子育てを例にとってますね。

引用

男女を問わず、ほとんどの人が一番の楽しみを感じるものがあります。それは「子育て」です。子育ての楽しみは毎日の変化です。子育てでは「次」に何が起こるか、まるで見当がつかないのです。小さな子供は、朝、起きる時間も、起きたときの機嫌も、毎日違います。その変化を見て楽しむ以上に、人間に楽しいことはありません。

皆さん「あれもこれも楽しい」というようなことを言いますが、子育て以上に強烈な楽しみは、人間にはないのです。

中略

幼い我が子の成長はおおいに喜びます。成長が早ければ早いほど楽しい。よその子供より早く喋り始めた。もう歩くようになった。1歳半で本を読むようになった。そんな具合に、無常が、変化が早いほど喜ぶのです。しかし同じ我が子があっという間に思春期になって、暴力をふるったり、逆らったり、家出したりすると、嫌がる、悲しむ。元の状態に戻ってほしいと期待する。

このように世間では、変化、無常を、主観的、感情的に、自分勝手に評価しています。客観的でも普遍的でもありません。

つまり人間は、世の中が自分に都合よく変化してほしいと願っているだけなのです。あり得ないことを望んでいるのです。

 

うむ、世間の無常の見方は、ほとんどは主観的、感情的なものではないでしょうか。

自分の都合のよいように見てるということですね、これに対してどうすればいいか・・。話は続きます。

 

無常は観察によってわかるもの

世間一般の無常は、杜撰な観察のたまものです。

中略

問題は乏しい観察力です。

「無常=事実」です。「事実=観察によって発見するもの」です。したがって「無常=観察して発見するもの」です。観察によって「変わっているのだ」とわかるのです。無常は研究するものでも読んで理解するものでもありません。ですから観察力の乏しさは致命的です。

中略

無常を語る文化が根付いているから日本人は無常をよく知っているから、というと、そうではありません。やはり観察能力が乏しくて、無常の一部だけをハイライトしているのです。

中略

変化に気づいたときには手遅れ

人間には観察能力があるのですが、どうにも能力が低くて、無常、変化に気づくのが遅すぎます。子供の成長にも、会社の経済状態にも、世界の変動にもきちんと気づきません。無常に気づいたときには、すでに危機的な状態になってしまっているのです。

 

うむ、考えてみれば、主観、感情で事実(無常)を見れば、変化に気づくのは、やっぱり遅れてしまいますね。

 

私も子育てで、手遅れを実感することがあります・・。

 

うむ、観察能力を上げるためにはどうすればいいか?

本書をお読みください・・。

 

 

無常は難しいですけど、楽しく学ぶには良い本です。