oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

123 努力大好き人間になる 『一瞬で心を磨くブッダの教え』

引用

ぜひ、努力大好き人間になりましょう。

努力することを趣味にすればいいのです。

「ああ、今日はけっこう頑張れた」「今日は朝から晩まで、いろいろやって疲れるまで頑張った」「今日は充実感があった」など、努力したことを喜ぶのです。

「ああー、疲れた。なんだ、この人生は」という考えではダメです。

なによりも頑張れたことを喜びましょう。

ものすごく仕事で疲れているのにあれこれと文句を言われたときでも、いろいろなことがあってくたくたに疲れて家に帰るときでも、「頑張れて良かった」と、ものすごく満足そうな顔ができるようになってください。

それができるようになれば人生は変わります。

ぜひ脳を開発して、努力を好む人間になりましょう。

 

私見です

 

根が怠けものなので「頑張る」とか「努力」いう言葉が苦手です、でも「充実感」だったらなんとなくわかります。

 

ちょっと参照

j-theravada.net

 

ちょっと引用

そういうところに、物質的には恵まれた国々から大勢の人たちが行って手伝っている。病気も見たことのない人たちが、あちこちで人が死んでいるような大地へ出かけて行って、一生懸命治療したり食べ物を配ったりして頑張っている。自分の家で、よく食べて良く寝ていればいいのに、それでも行く。現地では、体もつらいし、自分も病気にかかるかもしれません。でもその人が、これは私がやらなくちゃいけない、私の今の仕事によって生命がわずかでも助けられているんだと思うと、生きている確実な意味が生まれてくるのです。私は一日でも元気でいた方がいい、なぜならこういう人々を助けるのだから。そう思うと、まずお腹いっぱい食べて体力をつけようと思う。そのときはお腹いっぱい食べることは幸福であって、太ったらどうしようとか、ダイエットしなくちゃなんて思わない。今の日本は、あまりに豊かすぎて食べるときも苦労するでしょう。これを食べちゃったらちょっと多すぎるとか、ダイエットしなくちゃとか、そういう感覚は不幸ですね。

 

自分のやっていることが人の役に立つ、ということが大事なのかな。

 

自分のやっていることに意義とか充実感を見いだせば、それを遂行するために、ご飯を食べて、きちんと睡眠をとって体力をつけなくてはならないですし。

 

不眠症とかダイエットとは無縁ですね。

不眠症は人の役に立つわけでもないし、ダイエットも人に役に立つことがあるのかな?

 

 

で、下記

j-theravada.net

 

気になるところを引用

 

たとえば子供たちが学校に行って勉強する。母親は何を教えれば良いのでしょうか。いい仕事につけるように学校に行ってちゃんと勉強しなさい、と教えればよいのでしょうか。じつはそれこそ、不幸な教えなのです。そのように教えられれば子供は、自分のために、自分が贅沢するために、楽をするために、自分のわがままのために、学校へ行くのだと考え、わがままは良いものであると勘違いしてしまうのです。そして、自分の楽のために何かをする、というわがままを通しはじめるのです。

 

中略 

 

勉強して、大勢の人々の役に立つ人間にならなくてはダメなんだ。ろくにものも考えず適当に、誰の役にも立たないような、あるいは社会に迷惑をかけるような会社に入って、サラリーマンとなって、ただ何となく生きて死ぬようなら、お母さんにとっては何も面白くないんだと、教えてみてはいかがでしょう。

自分の贅沢な暮らしやわがままを目指すのではなく、大勢の人を助けられる立派な人間にならなくてはいけないのだと、そんな道徳観を教えてあげれば、子供は、やっぱり勉強することはとても大事なことなんだという気持ちになるのです。それで勉強が面白くなってきます。

どこかの会社に入るためでも、食うためでもなくて、この社会を守るため、人々を守るために勉強するのだという気持ちで、机に向かうのです。すると、能力のある人はどこまでも成長する。能力のない人は適当なところで伸びとどまって、そのあたりで社会に貢献しようとする。どちらでもいいのです。

 

 

 自分の贅沢のため、自分の楽のため、自分のわがままのため、に勉強して会社を選んで生きるというのは、自分の心に悪そうですね。

 

先生は自分の心に悪いことはしないほうがいいです、と説いている感じがします。

 

 

で、充実感を見いだす人の役にたつ仕事ってどこにあるの?

参考リンク

j-theravada.net

 

この「神様」のお話が面白かったです。

聖書にも、私が言っているようなことが書かれています。こんなストーリーがあるのです。ある人が死んで、神様のところに行ったら、神様が「こっちに来るな」と言うのだそうです。その人は「どうしてなんですか、私はちゃんと教会を守って、毎日お祈りを欠かさず、きちんとまじめに生きてきました」と言いました。神様は、「おまえは私を無視した。私が、のどが渇いて水が欲しいと言ったとき、おまえは知らん顔してあっちへ行ってしまった。またある日、ものすごくお腹がすいて食べ物もなくて困っていたとき、おまえはたくさん食べ物を持っていたのに、ひとかけらもくれなかった。そのような性格のおまえは、けしからん」とおっしゃった。「何をおっしゃいます、神様。神様が水が欲しいとおっしゃるなら世界中の水を集めて差し上げますし、ご飯が欲しいと言われるなら、何億円分のご飯でも差し上げるんです。そんないい加減なことを言わないでください。だいいち、私が生きているうちには、一度も神様にお会いしなかったではありませんか」
そこで神様は言われる。「おまえは○月○日、ものすごくのどの渇いた人を、×月×日、お腹をすかせた乞食を見たではないか」「そういえば、覚えがあります」「そのとき、その人に水をあげたのですか」「あのとき私は忙しかったし、その人もどこからか水を捜してきて飲むのではないかと思って帰ったのです」「では、その乞食には、食べ物をあげたのですか」「そんな連中は、仕事もしない怠け者で、私がみんなにご飯を配ったりすれば、さらに怠け者になるだけですからあげなかったのです」…それに対して、神様は、「あなたは自分のことしか考えてしませんでしたね。ですから私に水もくれなかったし、ごはんもくれなかった」と追い出し、地獄に行かせたという話です。

ここで言うのは、我々の目の前にいる、私たちが今助けてあげなくちゃいけない人が「神」である、仏教で言うなら「仏様」である、という話なんですね。我々の生きる意義や目的というのは、目の前にあるものなのです。
自分の家族を大事にすること、自分が生かされている社会を大事にすること。せっかく地球の恩恵を受けて生きているわけですから、それを何倍にもして返してあげること。泣いている人を見つけたら、慰めてあげること。のどが渇いている人を見つけたら、飲みものをあげること。寂しくてどうしようもない人がいたら、その寂しさをなくすように何かしてあげること。電車に乗って、からだの弱い老人や障害のある人を見たら、「どうぞお座りください」と席を譲ること。

わかりやすく言うならば、自分が生きることによって、まわりが幸福になる、まわりの助けになる、自分の生き方が無駄ではないと思える人生というのは、幸福な人生なのです。その人は、泣かない、苦しまない、悩みはない。その人が、たとえ宮殿のようなところに住んでいようと、家もなくて道ばたで寝ていようと、幸福にかわりはないのです。それは、万人共通の幸福の道なのです。
ちょっと考えを入れ替えるだけ。私が生かされていることに気づき、だから私も皆さまを生かしてあげる。それだけのこと。

 

 

 いま、ここ、目の前にやるべきことがあるのですね。

これだったら自分の心に良さそうです。

 

 

自分の心に良いことをしてみてはどうでしょうか?と提案してくる本です。