ジャータカのよもやま話

テーラワーダの在家仏教徒 身の回りのことを地味に書いてます。

165 家族が認知症になっても、自我を捨てれば問題はない 『一瞬で心を磨くブッダの教え』

引用

ある人が私に、「認知症になった家族が自分のことを忘れているんだ。『あんた誰?』と言われるんだ」とこぼしていました。

私は、「それでいいじゃないですか。『隣の家から来たおじさんだよ』と言ってあげたらどうですか?」と答えました、楽しいですよ、そうしたら。

認知症の人だって、看護師とかそういう人たちの顔はなんとなく憶えていますけど、家族は毎日行くわけでもないのだから「知らない人が来ているぞ」と思うのは当たり前なのです。自分の親にそんなこと言われたら、息子としてはショックかもしれないけど、でもそれは「息子」という自我があるからなのです。

そこで「隣の家から来た何とかです」と言えば、自分でも楽しいし、「ただのおじさんなんだけど面倒見てあげてもいい?」と聞いたりすれば、何のこともないのです。

 

私見です。

 

この認知症になった家族の方、正解です。

男の人をただの「男性、おじさん」と認識しただけです、正解です。

 

男の人は「俺は息子なのに」にと思っても「息子だ」というのはその男性が勝手に思ってるだけであって、家族の方にしてみると、そんなことはどうでもいいんですよね。

 

「息子」という概念もとりあえず社会生活を送るために便宜的に使ってるだけで、「男性、おじさん」という認識が正解ですよ。

 

ちょっと世俗諦を超えましたね。

 

家族の方にしてみると、長い輪廻の中で出会った男性のひとりすぎないです。

 

まあ、出会ってしまったら、仲良くするしかないし、面倒を見たり、見られたり、ということで、本当はそこに「自我」という単語が当てはまる場所はないですね。

 

 

認知症と言われる方よりも、健常者の認知、認識のほうがおかしいんじゃないの?と教えてくれる本です。