ジャータカのよもやま話

テーラワーダの在家仏教徒 身の回りのことを地味に書いてます。

175 子どもには仲間意識を持って教える 『一瞬で心を磨くブッダの教え』

引用

あなたが子どもに教えたいなら、ただ、みんなハチャメチャにはしゃいで、ゴチャゴチャ言いながら、突然「これはこういうことだよ」とか、「これは、君は知らないと思うけど、特別に教えるね」とか、そんな感じで教えればいいのです。

そのとき、けっして真剣な顔をしてはいけません。

子どもは真剣さには反応しないのです。

「面白い」と思ったら反応する。「先が読み取れない」とわかったら反応する。次、どうなるかわからなくなると反応するのです。

基本的な子どもの反応というのは、「面白いものに引っかかっていく」というものです。

それから、仲間意識がすごくあります。

ですから、お説教する大人ではなく、ただの仲間だと見てもらえるようになってくると、かなり信頼されます。

 

 

バリバリの私見です。

 

 

下記の本を連想しました。

 

 流通在庫のみです、私が先生を初めて知った本です。

 

 

先生と子どもとのやりとりが楽しいです。

先生はかなりの子ども好きというか、自然に子どもが寄ってくるお坊様だとお見受けします。

 

引用

スマナサーラ

日本に来てから私が本当に緊張したのは、幼稚園なんです、幼稚園に呼ばれると、けっこう緊張する。ほかのところでは、緊張がどんなことかすら、わからない(笑)

 

ーーーどうして子どもの前だと緊張なさるんですか?

 

スマナサーラ

何を言うのかわからないんだから。

 

ーーーそうした子どもこそが、本当の人間なんでしょうか?

 

スマナサーラ

先生も書いておられるように、子どもは自然ですからね。子どもの出す質問を、大人は単なる思いつきだというけど、私はそうは思わない。子どもだからこそ、本当の質問を出すんです。そういう質問には、こちらもすごく新しく考えて、新しい発見をしなきゃ駄目なんです。こちらも「生きもの」に戻らなくちゃ、答えられないんですね。。

 

ーーー「生きもの」ですか。。

 

スマナサーラ

そう。我々はいま、死んでいるんだから。決まりきったプログラムで動いているでしょう?もう死んでいるんですよ。でも、子どもと向き合うと、そこでまた生きものに戻って考えちゃうんですよ。

ある仏教系の幼稚園に、話をしてくださいと頼まれて行ったんです。喋ろうと思っても、これもまた誰も聞く気持ちはない(笑)。私のほうも別に教える気持ちはなくて、それでも形式的になんとか喋って、喋っている間に子どもが立って、私のほうに寄ってくる、私は「はいはい、どうぞ」と。一人の子が、こちらの背中に回って、私は頭をかみそりで剃っているもんですから、それが面白いらしくて、触ったり、叩いたりする(笑)。私はその子にそれをやらせる。もう一人の子が来て、膝の上に座り込んじゃう。そうしながら話は聞いてはいないんだけど、質問はする。「あれ何?」「これはどうして?」とかね。それで一つ質問をつかまえて答えようとすると、また別の質問をする。もう答えられない(笑)。

もうどうしようかと・・・・。こちらはたいへん。惨敗です(笑)かなりやられるんですよ。めげそうなる。でも子どもたちに悪気があるわけじゃないんです。子どもっていうのは、ただただ生きているんですからね。

 

 

うむ、先生はネイティブに子どもに好かれるんですよ。

もう「仲間」だと思われているし・・・。

 

死んだ目をしたしょうもない人には辛口でコテンパンですけど、ただ生きている人にはめっぽう弱いのですね。

 

ということは、死んだ目をしたしょうもない大人には子どもは近づかないし、仲間とも思わない、ということです。

 

最近はコロナで距離をとらなければいけませんが、公園とかで見知らぬ子どもに(親が目を離したスキに)寄って来られることがあります。

 

家人に言わせると「あなたは子どもに好かれる」とのことです、自覚はないです、でも初めて出会った子どもでも平気です、かまうことができます。

でも、もともと自分勝手で飽きっぽい性格なので、つまらなくなると他のことをやってしまいます、やっぱりダメな大人です。

 

子どもに「好かれるか否か」は、もしかすると「生きてるか死んでるか」、自分の死に具合がわかる目安かもしれません。