ジャータカのよもやま話

テーラワーダの在家仏教徒 身の回りのことを地味に書いてます。

179 子育てに失敗するのは執着がありすぎるから 『一瞬で心を磨くブッダの教え』

引用

子育てに失敗するのは、執着がありすぎるからです。「子どもは私とは別な人間です。私は預かっているのです」という感じでいいでしょう?人間様ですからね、けっこう気を付けて、丁寧に見なくてはいけません、悪いことをしてしつけるときでも、「別の人間である。私のものではない」と思えば、けっこううまく教えることができます。別の人間として、「ああ、この子は頭が良さそうだな」などと、よく見えてきます。それがわかれば、いとも簡単に導けるでしょう。親子の対立は起きません。

親子の対立は、親が子を所有物だと思ったときに起こります。いくつになっても、子どもは親とは親しくしたいものです。私の親はもう生きていませんが、生きていたら、今でもかわいがってほしいです。しかし親がああしなさい、こうしなさいと命令すると、腹が立つものです。「私のことは、私の勝手にやります」という気になります。だからといって、怒られたくはないのです。そのあたりは、無執着世界ならうまくいきます。できるだけ執着なく生きると、生きる苦しみはかなり減ります。

 

 上記の文章は下記の本からの引用です。

 

親子関係から来る「苦」のお話になりそうですね。

 

 

 

上記の本、持っていませんでした、先生の「苦」に関する法話の本を探します。

 

この本はどうでしょうか?

 

 

 

気になる部分を引用

 

苦をつくる「私のもの」という無智

「私の」という言葉が、我々に苦しみをつくるのです。「私」とはなんですか?たくさんの細胞がそれぞれ「生老病死」をしているだけで、細胞一個一個は「私」ではありません。瞬間、瞬間、壊れていく細胞が集まっている「私」は、現象の流れにすぎません。何か固定的な「私がいる」ということは成り立ちません。まして「私のものがある」と思うことは、極まりなく無智の証拠です。

もしそれが「私のもの」なら、なぜ私の自在にならないのでしょうか?「私の犬」なのに、なぜ私の勝手にならないのでしょう?実際は「私の犬」なのに、犬に合わせなくてはなりません。「私の子ども」」でも、子どもの性格に合わせて奴隷にならなくてはいけないのです。

ですから「私の」といったら、「奴隷になっている」という意味です。愛着です。自在ではありません。「私の家」といったら、家の奴隷になっています。「私の金」というなら、金の奴隷になっているのです。なんとかして、「私のものはない」と思わなくてはいけないのです。なくなるもの、離れるもの、壊れるものは、「私のもの」ではないのです。自然法則によって、すべてのものがなくなり、離れていき、壊れます。ですから「私のもの」ということは成り立ちません。

 

私見です

 

親子関係からいつのまにか執着からくる苦の話になってしまいました。

 

 

親子関係から自分の執着の度合いを観察することができそうです。

いちばん身近な執着かもしれませんね。

親の立場だったら子どもが、自分の執着を教えてくれそうですね。

 

執着に気づいたらたぶんラッキーですよ、と教えてくれる本です。