引用
我々が一番気をつけなければいけないのは、我々の認識、知識です。私たちの知識は真っ赤な嘘です。「人に殴られて痛い」というのは、痛いのだから嘘ではありません。しかし、それについて頭の中に出てくることは、ぜんぶ嘘なのです。「人に殴られて痛かった。まあ、痛かった」。それで終わるなら正しい。でも「この人は私に恨みを持っているのだ」とか、「この人は精神的な病気だ」とか、「私はなんて不幸な人間か。今日はついてない。朝から嫌な目にいっぱい遭って、その上、殴られた」と、いろいろなことを頭の中で考えるでしょう。それはすべて根拠のない、真っ赤な嘘なのです。人間が思う存分、幻覚を作って、それで生きている。「あいつはいきなり私を殴って、私にどんな恨みがあったのだろうか。私もいつかあいつに仕返ししてやらないといけない。どうすればいいだろうか?」などと、心でいろいろ考えることは、ぜんぶ、外の世界とは何の関係もない、自分だけの幻覚・妄想です。ですから、人間の知識も、人間の自由な認識も、まったく当てにならないものです。ですから人間は、しっかりとした智慧を得なければいけないのです。
私見です
上記は下記の本からです。
上記の本
先生の「認識に関する」お話が縦横無尽です、一般の方でも読めそうです。
個人的には261ページの2因、3因の話を興味深く読んでしまいました。
アビダンマというと下記の本があるのですけど・・。
上記の本、いきなり読んでも歯が立ちません・・・、私の場合。
ですから、先生のアビダンマの本と上記の本を並行しながら読めば、アビダンマの理解も広がるかもしれません。
すみません、脱線しました。
ズバリと感じた部分を引用します。
仏教では人間の認識の仕方を知っているのですから、「誰の知識ににても、大したことではありません。単なる、その人の思いだけです。信憑性も真実性も全然ありません」と、平気で言います。そこが理解できれば、その人は誰とも争うとしません。
で、本では、正しい認識を得るためにはどうすればいいか、と先生の縦横無尽なお話が続きます、くわしくは本書をお読みください。
正しくない認識、知識で争いが起きるのはバカらしい、と教えてくれる本です。