oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

209 度数の合わない眼鏡は外す 『一瞬で心を磨くブッダの教え』

引用

我々は他人の価値観、他人の判断に合わせて生きようとしています。皆様が奴隷の身分であれば、それも仕方ないことです。しかし、この世に奴隷制度があったときでも、人間が喜んで奴隷になったことはありません。

他人の見解や価値判断に自分の人生を合わせても、うまくいかないのです。比較する他人も、私と同じく不完全な人間だからです。模範にはならないのです。

「あの人のように美しくならなくては」「あの人のように成功しなくては」「あの人のように能力を上げなくては」「あの人のように明るい人間にならなくては」などは成り立ちません。 

あなたがどのように頑張っても他人にはなれないのです。軽く参考にする程度にしましょう。他人に合わせて生きようとすることは、度数の合わない眼鏡で正しく見ようとするのと同じです。私は、私にできることを精一杯やります。それが「私の成功」なのです。

 

私見です

 

先生の法話で「眼鏡」が出てくるのを見つけました。

thierrybuddhist.hatenablog.com

 

上記で先生は「眼鏡を変えること」を「自分に人生論を変える」という意味で使ってます。

 

度数の合わない眼鏡は、正しく世の中を見ていない、ということだそうです。

 

 

上記の文章だと「慢」を連想します。

 

勉強ノートによると、不善心所(10)で

「私が存在する」という実感から、自分を基準にして他者と比べるはたらき、驕り高ぶること、とありました。

 

 

で、慢には3種類あり、上記だと「卑下慢」になるのでしょうか。

 

卑下慢などは一見謙虚な性格のように見え、悪くないように思えるが、自分の存在を前提にしている時点で顛倒以外の何ものでもなく不善な心である。

 

他人の見解や価値判断に合わせる生き方は、結局、自分の自我の存在を肯定しないと出来ないので、バリバリに自我が暴れまわっている行為なんでしょうね。

 

自我や貪瞋痴にすぐ気づける眼鏡が必要という話なのかなあ、それとも自我や貪瞋痴を通さない有害な光を通さないようなサングラスのような眼鏡があるのでしょうか?

 

 

本日は慢の勉強になりました。