oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

231 高慢があると慈悲は実行できない 『一瞬で心を磨くブッダの教え』

引用

慈悲を実行しようとする人は、高慢があると、実行できなくなります。自分が何者でもない場合は、いつでも人のことを親切に考えることができます。人にやってあげなくてはいけないことを、いとも簡単にできるのは、自我のない人なのです。

「自分は偉い」と思ったり、「自分はこういう者だ」という肩書で考えるようになったりしたら、自分が自由に行動できなくなる。

反対に、「自分は何者でもないのだ。何の立場もないのだ」という状態でいると、人のためになることは何でもできます。

 

私見です

 

せっかくだから言葉の勉強

下記の本より

 

 

引用

慢(マーナ)

「私が存在する」という実感から、自分を基準にして他者を比べる働き。驕り高ぶること。

生命は六門によって情報を認識すると、「私は見た」「私は聞いた」と、「私」という概念を作り出す。「私」という概念が生まれると同時に、「他者」という概念も生まれる。そして、自他を比較するようになる。そこに大きな錯誤がある。

慢にいは3種類のものがある。

 

増上慢 自分が他人より上だと考える

 

同等慢

自分が他人と同等と考える

 

卑下慢

自分が他人より劣っていると考える

 

このうち、卑下慢などは一見謙虚な性格のようにも見え、悪くないことのように思えるが、自分の存在を前提にしている時点で顛倒以外の何ものでもなく、不善な心である。

 

 

「自分がある」と思う時点で顛倒してるので、それを前提に「自分が正しい」とか「自分のほうが・・・」をエサにして、慢が巨大化していくのでしょうね。

 

私なんか、慢が充分巨大化、強大化した時点で、これはヤバイ、不善だと気づくパターンが多いです、充分遅いですし、慈しみの心のかけらさえ生じていません。

 

慢を完全に無くすのは、まだ遠い感じがするので、先生のおっしゃる通り、せめて、日常生活では「なんの立場もないのだ」と思うことにします。

 

立場なんて、場面場面、状況状況によってコロコロ変わります、自分の力ではどうにもならないことが多いような気がします。

 

ですから、コロコロ変わっても、どんどん対応していって不善を犯さないようにしなければいいのではないでしょうか、そのほうが自由ですね。

 

 

不善な心は、日常の行動を不自由にする、ということを教えてくれる本です。