oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

243 喜びとは平安な心の状態 『一瞬で心を磨くブッダの教え』

引用

智慧のある人が味わう「喜び」とは、落ち着いて、リラックスして、なんのこともなく平和な心でいられることです。

人が悩んでいても、自分は悩まずに平和にいられる。

人が嫉妬の炎を燃やしていても、自分には嫉妬する原因はないから平穏にいられる。

喜びとは、そういう絶対的な平安な心の状態です。

 

上記の文章は下記の本から

 

 

 

 

上記の文章を読むと、「なーんだ、阿羅漢の話なのかな、関係ないや」と思ってしまいそうになりますけど、上記の本の索引で「智慧」の部分を読むだけでも参考になります。

 

ちょっと引用

私が言いたいのは、智慧の世界は普通の世界の中でも、人間にはその都度、現れるものだということです。その瞬間で、その人はやっぱり落ち着きを感じる。苦しみを感じない。驚きも感じない。聞いた話ですが、高額の宝くじが当たって、その当選番号を見たところで、あまりにも驚いて死んでしまったということもあるそうです。だから、幸福なときでも無智な人は不幸になってしまう。そのとき智慧のある人は、「ああ、そうか」と落ち着いて、「これからどうすればいいか」というひらめきが、頭に自然に現れてきます。

ですから人間に常に必要なのは智慧です。それはなんとしても育てなくてはいけない。仏教でしつこく「無常だ。無常だ」と言うのは、悟らない人でも、修行しない人でも、この無常の「概念」を徹底的に頭に叩き込めば、無常に基づいてものごとを考えるようになってしまえば、それは智慧の人間の生き方になるからです。その人は誰よりも、ものごとについてひらめきがあって、判断能力がある。悟らなくても、それくらいのことはできる。それは覚えておいてほしいところです。

 

 うむ、無常と智慧は関係があるのですね。

 

他の部分も引用します。

智慧にはいろいろなレベルがあります。一般的な人々の中でも智慧が現れたりするし、瞑想する人々の中でも、その都度その都度、智慧が現れたりするし、ヴィッパサナー瞑想をする人々の中でも智慧が現れたりする、それはもう刃物と同じです。刃物にもいろいろな種類があって、それぞれ切れるものが違います。鋸で切れるものと、ペンナイフで切れるものと文化包丁で切れるものと、どれも刃物であることに変わりありませんが、それぞれ切る対象が違います。でも、それを全部まとめて「刃物」といっているのです。

そのように我々は、無智を切るものを「智慧」という。人間の苦しみを切るものを「智慧」というのですが、何を切るかということによって、智慧のランクが決まってしまいます。

 

 

私の刃物はまだまだ小さく鉛筆くらいしか削れません。

 

でも研ぐことをさぼって「なまくら」はいけませんよ、と教えてくれる本です。