oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

263 生きることに意味はない 『一瞬で心を磨くブッダの教え』

引用

生きることに意味を探すのは無意味です。しかし、生きていることは確かです。「必ず死ぬ」ということも確かです。生きていることは「死を避ける」という大変な闘いです。簡単に楽に贅沢に、ちやほや大切に生きられるということはけっしてありません。ですから「どう生きるか」と現実的に考えるのです。どうせ生きるなら、他人の役に立つように他人に迷惑をかけないように生きてみるのです。「あなたがいてよかった。たいへん助かります」といわれるような人生が、実りある生き方です。

 

 

上記の文章は下記の本からになります。

 

 

うむむ、持っていないので参照できません。

 

今回はバリバリの私見で・・・。

この本を参照しました。

 

 

上記の本より引用

有身見とは、自らを人であるとか、人に属するものである見做す考え方であり、また、それを常住であり、好ましく、我であるとするものです。この有身見は、渇望や執着という煩悩を引き起こします。そして、この煩悩は次々と素早く行為を起こし、さらにその行為は私たちに新しい存在としての再生をもたらします。

 

有身見とは「私」という概念が実体のあるものだと顛倒し、身体や心が自分のものだと勘違いしてしまうこと。 です。

 

 

で、次は名色のお話です

引用

世間の人々は普通、「見ること」といった場合、それは私たちの眼が実際見ているだと考えています。彼らは「見ること」と「眼」を一体のものとして考え、同じものと見做しています。世間の人々は「見ているのは自分である」「私はものを見る」「眼、見ること、私は一体であり、同じ人が行っている」などとも考えています。しかし、実際のところはそうではありません。本当は「眼」と「見ること」とは別物であり、個別に独立した「私」「我」などという実態は存在せず、ただ「眼」を基盤として「見ること」」という事実が生じているだけなのです。

 

「眼」と「見る対象」は「色」ですね。

「見ること」は「名」ですね。

 

存在するのは、この二つだけで、「有身見」とか「我」は無いのですね。

 

勝手な想像ですけど、巷でよく聞く「生きることの意味」って 有身見由来の煩悩から来ているような気がします、「煩悩」だと「輪廻」の犠牲にもなりそうです、そういったことには「意味はない」と言い切ってしまうことができそうです。

 

本では有身見由来の我や煩悩によって、輪廻の犠牲にならないためにも、戒定慧の大切さ、具体的な瞑想実践について書いてあります。

 

 

いまだに完全な煩悩の除去はできていませんので、日常生活ではいつも煩悩が顔をだします、まだまだ煩悩がまとわりついてきますので、先生のおっしゃる通り、他人の役に立つように、他人に迷惑をかけないように、生きてみることが大切なのではないでしょうか。

 

私自身は、バンバン役に立つことができるほど頭が回らないので、せめてお釈迦様がおっしゃるところの悪いことはしない、五戒を守ることが大事ではないかと思っています。

 

たまに、マハーシ長老の本が読みたくなる本です。