oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

281 死とは生のことである 『一瞬で心を磨くブッダの教え』

引用

仏教的に「死」というのは「生」のことです。何か壊れて何か生まれる、何か壊れて何か生まれる、何か壊れて何か生まれるということは命です。輪廻です。

私たちの問題は、それが嫌だと思うことです。生死の流れを理解できず、死を嫌がるのです。自然法則を嫌がるというのは、愚かな気持ちです。それは法則違反です。

生死も、どうすることもできないことです。

「生」に対して、「死」に対しては「放っておけ」というのが答えです。「課題」にするなよ」と。課題にするなら、あなた方は、ちょっと思考がおかしい。だったら、この命のからくりをしっかり見なさいよ、と。

命のからくりがはっきりすると、「死」のおかげで生きているとわかります。「生」のおかげで死が成り立っているのです。「死」と「生」があるから命が成り立つのであって、「生」だけでは成り立ちません。何かが壊れなければ、何かが生まれることもできないのです。そういう生死の流れがわかってきます。

 

 

私見で恐縮です。

 

下記を参考にしました。

j-theravada.net

 

 

上記より引用

生きることの定義です

最終的な定義に入りましょう。ひとには眼耳鼻舌身意という六つの感覚器官があります。それに色声香味触法という六つの情報が触れて、認識が起きて続きます。それが生きることです。

 

うむ、生きることって、これだけなんですね。

で、死ぬということは、上記の現象が滅するということになのかな。

 

で、生死よりヤバイのは輪廻ですね。

下記リンクを参照しました。

j-theravada.net

 

 

上記より引用

「蟹」の例え のお話になります。

輪廻の危機を感じない人

再び、激流の話です。流されている人は、自分が置かれている状況を知っているならば、最大の恐怖感・不安感を感じるはずです。では、流木をつかまえたとしましょう。気持ちはどうなるでしょうか。「やっと救われた」という気分になります。輪廻転生しているすべての生命は、輪廻という激流に流されています。それに気づいてないのです。美味しいものを食べられて幸せだなぁ、家族がいて幸せだなぁ、健康で幸せだなぁ、好きなことをできて幸せだなぁ、などなどの「幸せ」を見つけて、激流を楽しむのです。輪廻の危機を感じないのです。感じようともしないのです。調子に乗って生きているのです。この状態に対して、仏教の世界では「蟹の喩え」を使います。冷たい水を入れている釜があります。その中に蟹を放り投げます。捕まえられて怯えていた蟹は、すぐ安心します。釜の中で動きだします。でも、釜の下では火が焚かれています。蟹の安心感は水が温かくなるまでです。俗世間の誘惑に溺れて、何の躊躇もなく生きる人のことを、仏教の世界では「釜の中に遊ぶ蟹の如し」と言うのです。

 

 

 

生死よりもっともっとヤバイのは、「釜の中の蟹」を延々と繰り返すことですね。

 

 

 

 

さて、激流の中で流木をつかまえることができるでしょうか?

うむ、仏教徒なら流木をつかまえられるようにチャレンジしてみてはどうでしょうか、とおしゃっている本です。