oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

301 死隋念で慈しみと理性が生まれる 『一瞬で心を磨くブッダの教え』

引用

葬式を行ったとしましょう。安置されている遺体を見て、手を合わせて冥福を祈ります。これは一般人の常識的な(しかし極限に無智な)習慣です。死隋念を瞑想する人は、それと違うことを行います。遺体を見て、「この人は亡くなって死体になっている、私も確実にこのようになる。私にも死が訪れる」と念じます。手を合わせて念じれば誰にもバレません。もしバレたとしましょう。それでも一般人は、故人に対して無礼な態度だとは思いません。このように他人の死を観て、自分の死に入れ替えてみることが死隋念です。徐々に、自分の死も現実的に感じられるようになります。「私は死なないのだ」というあり得ない前提が消えて、「誰でも死ぬのだ」という前提になります。人生設計が変わります。幸福になりたいという目的は変わりません。事実を前提にした計画なので、期待通りの結果になります。ものがあっても、ものに執着しない。家族や親しい人がいても、人々に執着して悩んだりはしない。自我を張って他人に迷惑をかけることがなくなります。欲・怒り・嫉妬などの感情がなくなります。それらを交替して、慈しみと理性が心に現れます。

 

 

バリバリの私見です。

 

「300の回」で、養老先生のお話で、「自分の死」はわからないけど、「自分以外の人の死」はわかる、という話がありました。

 

ふだんは「自分は死なない」と思って生活しているし、「家族や財産も自分のもの」と思っているし・・。

 

お葬式は、「そんなことはないよ、人間は死ぬよ」という証拠を見せているのでしょうね。

 

お葬式で、「仲良く親しい方が亡くなった、ああー悲しい」とか、「長年、私をいじめてきた方が亡くなった、ああーせいせいした」と考えながらお葬式に接するのは極限に無智なのでしょうね。

 

お葬式で「人間は死ぬ」という証拠を見せているのに、極限に無智な姿勢なら、結局は「自分は死なない」とか「家族とか財産は自分のもの」は変わることはないですね。

 

うむ、無智だと、どんな証拠を見ても判断できないのでしょうね。

 

 

「お葬式で、実践してみましょう」と教えてくれる本です。