引用
我々が悲しいと思うのは、自分と関係がある人の死です。関係のない人の死に対しては無関心です。ですから、「死者を弔っているから、自分はよくできた人だ」と単純に考えることはできません。もし本当に「死は悲しいことだ」と思うのなら、一切の生命の死を悲しまなくてはならないはずです。しかし、親しい人の死しか悲しまない我々にとっては、人間以外の生命の死は管轄外で、なんなく殺してしまいます。人間以外は生命だと思うさえもないのです。ですから、死者に対して悲しむことは、仏教から見れば不善行為です。世間では人が死んだら泣くことが優しい行為ですが、仏教では亡くなったら亡くなったまでのことで、そこで悩むのは不善行為になります。「あなたが泣いても、死んだ人には何の役にも立たない」ということは、経典にも書かれています。「死の悲しみは個人に対する愛着、執着から起こる」ということを憶えておいてください。死に対する悲しみは、「エゴ」の表れです。しかし、本人は逆に感じるのです。涙が止まらない自分には、エゴのひとかけらもないと。しかし、それこそエゴなのです。
バリバリの私見です
上記の文章「エゴ」を「我」もしくは「自我」に入れ替えても、すっきり読むことができますね。
「死」というと、「死」そのものより、自分との関係性で理解したつもりになったり、感じたりするのでしょうね。
とは言いつつも、私もいきなり家人に死なれたら冷静でいられるかどうか自信がないです。
理由は「私が困ってしまう」からなのでしょうね。
理由に「私」と単語が付いてます。
「私、私、私」です。
もう、バリバリ自我全開の証拠ですね。
あれだけ仏教の勉強や実践しても、自我全開してますね。
上記の文章の
「仏教では亡くなったら亡くなったまでのことで、・・」
現象としての「死」を観察して、それでおしまい。ということなんでしょうね。
日常生活では、けっこうたくさん不善行為してますよ、と教えてくれる本です。