引用
心から奮闘する真に真面目な修行者には皆、成功の希望があります。ですから、もし、この恵まれた環境と希望を無駄にする人がいるのなら、私はその人を哀れに思います。そのような人は間違いなく、遅かれ早かれ、彼自身の悪い業により、輪廻の犠牲者になってしまいます。輪廻は彼を地獄、畜生、餓鬼道といった低い低層のみじめな存在に引きずりおろします。そして、その期間は数百、数千、数百万年間続きます。それゆえ、ブッダの教えを通じて、道戒と果戒を得ることに取り組むことは、まれな機会であると強調されているのです。
戒の実践を怠り、悪いことばかりしてると、結局、輪廻の犠牲者になってしまう、ということですね。
私も輪廻の中にいるので、輪廻の犠牲者なのかな。
悪いところに堕ちる可能性は十分あるし・・・。
ですから、今生で人間に生まれて仏教を知った、そのうえマハーシ長老の本に出会ってしまった、ということは、かなり「稀」なことのなのかもしれません。
業という言葉が出てきました。
下記にかなり詳しい説明があります。
ちなみに、日本では、会話なんかでよく悪い意味に使われますが、仏教用語としての「業」の意味がわかります。
上記のちょっと気になる部分を引用
ズバリ、業の説明ですね。
業とはいったい何なのか、より具体的な説明があります。 「比丘らよ、『意志が業だ』と私は言う:Cetanā 'haṃ bikkhave kammaṃ vadāmi」 という釈尊の言葉があります。
「業」=「意志」だとおっしゃるのです。心には常に「行為を起こす動機となる想い」があります。たとえば妄想する場合でも、「なぜこういうことを妄想するのか」と見てみると、何らかの「想い」が見つかるでしょう? その「想い」がcetanā(意志)であり、業なのです。
で、ショックなのは、歩いてても、勝手に業を積み重ねるということですね。
引用
たとえばある人が道を歩いているとします。それだけで、ドンドンその人の頭の中の合成機能が変わっていきます。感情も変わっていきます。それによって性格も変わっていくのです。「ただ歩いているだけで、どうってことない」と思うかもしれませんが、そういう単純な行為でさえ、小さな小さな業を心の中にためていくのです。その瞬間その瞬間、違うものを合成するのです。それがたまってたまって、次へ次へ次へと、自分を変えていくのです。業からは逃がれられないのです。ただ歩いているだけでも、悪行為をしているのか、善行為をしているのか、わかったものではないのです。聞く場合でも、味わう場合でも同じです。何をしても、瞬間瞬間の小さな粒子をたくさん積み重ねていって、無数の業を積み重ねながら、自分の見方を変えていくのです。完全に悟らない限り、業を積み重ね続けることからは逃げられません。私たちはいつでも自分の運命に足すか引くか、どちらかのことをしているのです。
うむむむ、何を考えても、何をやっても、結局業を作って積み重ねるようなことをしているようです、どうせ業を積み重ねるなら、善業のほうがいいですね。
うむむむ、ですから、五戒を守る、悪いことをしない、が大事になってくると思います。
世間心的な戒を実践して、その次には、「道戒」「果戒」とあります、これは悟りの階梯に入ったひとが得る戒のことなのでしょうね。
「道戒」「果戒」がどういうものかわからないし、考えないことにしますけど、でもここにたどり着くのは、もっともっと「稀」だということはわかります。
ここで、これから瞑想修行に入る人たちに、マハーシ長老は、「この機会はほんとうに稀なことなのだから、真に奮闘努して頑張りなさいよ」とおっしゃっているような気がします。
文章としては、無駄がなく素気ない感じがするのですけど、よく読んでみると、修行者を励まして下さっている、という印象があります。
うむ、やっぱり深い本です、やっと2ページ終わりました。