oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

009【輪廻の話】 第一部 理論編 戒の重要性 『ヴィパッサナー瞑想 マハーシ長老(著)』

引用

もし、私たちが転生後も常に道徳的な生活を送るのなら、その人はより高次の存在に転生し、幸福な生活を送ることでしょう。しかし、私たちが貪瞋痴の煩悩から自由ではないため、もし不善業をなしたならやがてその悪業の結果を受けるでしょう。私たちは、自身の悪業の犠牲者になるのです。そして、やがて地獄か、他のみじめな存在としてより下層の領域に転生します。このように世間的な定もまた、明確に私たちの安全を保証するものではありません。それゆえ、私たちは道と果のある出世間的な定に取り組むのが好ましいのです。出世間的な定を身につけることは、智慧を養うにあたって本質的なものです。

 

バリバリの私見です。

 

悟らない限り輪廻は続くので、自分の過去生でやってしまったことは、今生で結果を出しにくるかもしれないし、今生でやってしまったことが、転生先で出てくるかもしれない。

これは、因果法則ですね。

 

輪廻なんて無い!と言ったら、因果法則の否定になりますね。

死んで終わりなら、好き勝手に悪いことしまくって、死んで、終了です。

 

でも、因果法則って今生でも発見できますね。

 

例えば、私も気をつけなくていけませんが、若い頃、好き勝手やって家族を顧みないことをしていれば、年を取るといつの間にか、誰も寄り付かない、一人暮らしの寂しい生活になっているかもしれませんね。

 

経典では、自分のやってしまったことは、後ほどその結果を「相続する」という言葉を使いますけど、マハーシ長老は、不善業(悪業)を為したら、その悪業の「犠牲者」になるのです、ずばり「犠牲者」という言葉を使っていますね。

 

悪業の結果をわかりやすく表現するために「犠牲者」という言葉がいいのかな?

 

で、「犠牲者」と聞くと「なりたくないなあ」と思います、これから瞑想実践する方にガツンと言うにはいいのではないでしょうか。

 

世間的な定を身につけても貪瞋痴があるので100パーセント大丈夫ではありません、ですから、出世間的な定に挑戦すべきだし、次の慧を身に着ける話に続きます。

 

 

マハーシ長老のお話は「戒定慧」に沿って淡々と進みます。

 

好き勝手なことしてると、輪廻に好き勝手にされますよ!と迫ってくる本です。