oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

014【名の説明】 第一部 理論編 智慧の発展 『ヴィパッサナー瞑想 マハーシ長老(著)』

引用

では、何が対象を知るというのでしょうか?名(ナーマ)が対象を知るのです。名はパーリ語ではナーマと呼ばれます。対象に対して、心が傾く(ナーマティ)ためです。名とは思考や意識のことを言うこともあります。名は、色(ルーパ)によって生じます。眼によって、眼識(見ること)が生じます。耳によって、耳識(聞くこと)が生じます。鼻によって、鼻識(嗅ぐこと)が生じます。舌によって、舌識(味わうこと)が生じます。身によって、身識(触れること)が生じます。この触れることには、よいものも悪いものも、たくさんの種類があります。

身体による接触は身体の内側であれ、外側であれ身体全体の広範な箇所で生じますが、視覚、聴覚、味覚は眼、耳、舌といった身体の中で大変小さな領域を占める特定の場所に生じます。そして、これらの触れる感覚、視覚などは心の要素以外の何物でもありません。私たちの意識もまた、思考、考え、想像などの心の活動によって生じるものです。これらすべては、心の要素です。色(ルーパ)は対象を認識しませんが、心は対象を知るものなのです。

 

 

すみません、またバリバリの私見です。

 

気になる部分があります。

 

「この触れることには、よいものも悪いものも、たくさんの種類があります」とあります、文脈からいくと「身識」の「触れる」になるのかなあ、と思いましたけど。

 

身識の「触れる」だけ、よい悪いがあり、たくさんの種類があるとは思えないです。

 

この「触れる」という意味は、眼耳鼻舌身に色声香味触が触れたという意味なのだと思います。

 

下記の本を参照

 

 

引用

そういうことで、眼耳鼻舌身の場合は、情報を知るために何か物質が必要です。もっと正確に言うと、なにか物質(ルーパ)が我々の適切なチャンネルにぶつかる・触れるということが必要なのです。

触れたらかならず反応を起こします。それを仏教では「触ファッサ」という専門用語で呼んでいます。「触」は心所で、心のはたらきです。反応は心で受けるのです。

 

 

うむ、ですから、マハーシ長老のこの文章における「触れる」は、「触ファッサ」の意味だと思います。

 

で次の疑問

 

「よいものも悪いにも、たくさんの種類があります」とあります。

 

えーと、「触ファッサ」という意味だと、アビダンマ的意味だと、ファッサは同他心所の中の、共一切心心所にあります。

 

同他心所には善悪の区別がない、単なる心の作用です。

 

ということは、マハーシ長老の「この触れることには、よいものも悪いものも、たくさんの種類があります」という言葉には、ん????になってしまいます。

 

また引用、下記の本より

 

 

56ページ

同他心所13種類

同他心所は善悪の区別がない、純粋に心理的な働きをするチェータシカ(心所)のことである。これらのチェータシカは単体では善悪の区別なく機能するが、アクサラチェータシカ(不善心所)と結びつけば不善の心として機能するようになり、逆に、ソバーナチェータシカ(浄心所)と結び付くときには、善の心として機能するようになる。

同他心所は、一緒に生じた他の善悪の心所と同じ性質になるので「同他心所」と言われるのである。

 

 

 

人間が触れるルーパはいろいろ多彩ですけど、ほとんどの場合、ファッサで止めないで、あっというまに、いろいろな心所と結びついて善悪が生じているのではないでしょうか、と考えると「この触れることには、よいものも悪いものも、たくさんの種類があります」という言葉に納得します。

 

まだまだ「ナーマルーパ」のお話は続きます。