oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

015【見ること】 第一部 理論編 智慧の発展 『ヴィパッサナー瞑想 マハーシ長老(著)』

引用

世間の人々は普通、「見ること」といった場合、それは私たちの眼が実際に見ているのだと考えています。彼らは「見ること」と「眼」を一体のものと考え、同じものと見做しています。世間の人々は「見ているのは自分である」「私はものを見る」「眼、見ること、私は一体であり、同じ人が行っている」などとも考えています。しかし、実際のところはそうではありません。本当は「眼」と「見る」ことは別物であり、個別に独立した「私」「我」などという実体は存在せず、ただ「眼」を基盤として「見ること」という事実が生じているだけなのです。

 

うむむ、マハーシ長老は、いつでも直球ど真ん中に投げ込んでくる感じです。

「ナーマ=見ること」と「ルーパ=眼」で、ナーマルーパの話が続くのですけど、ここではサラリと、「ナーマルーパしかありませんよ、ここに我なんてありませんよ」とおしゃってます。

 

今、パソコンの画面をみてキーボードを打っているのですけど、もう「私が見ている」という感覚です、ここに「私はない」なんて感じるためには、無理矢理そう思うしかないのかしら?と思ってしまいます。

 

下記を参照にします。

thierrybuddhist.hatenablog.com

 

はい、ズバリ私も無我がわかりません。

マハーシ長老のお話も理屈としては理解できますけど、実際、「我」はないよと言われても実感がないです。

 

上記リンクより引用

回答(スマナサーラ長老)

 

わからなくていいんです。

その気持ちで結構ですよ、冥想するならばね。

 

無我がわからないというけれど、「自我」がわかりますかね?

自我ならわかりますよ、と言える?

 

だから無我がわからないと言っても、本当は自我もわからないでしょう?

そこでヴィパッサナー実践をするんです。「一体どうなっているのか?」とみればいいんです。

 

 

うむむ、とりあえず「我」の話は理論編ということで頭に入れておいて、大事なのはヴィパッサナー実践に進むことですね。

 

まだまだナーマルーパのお話は続きます。