oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

016【見ること】 第一部 理論編 智慧の発展 『ヴィパッサナー瞑想 マハーシ長老(著)』

引用

例をあげてみましょう。家の中に座っている人を想像してみてください。人と家は、本来は二つの別個のものです。家は人ではなく、人もまた家ではありません。見ることの

場合も、同じように考えることができます。「眼」は「見ること」ではなく、「見ること」もまた、「眼」ではないのです。

 

うむ、ここでは、「家=眼」「人=見ること」とおっしゃっているのでしょうか?

それとも「家」と「人」」両方ルーパなので、二つルーパがあって、二つとも別個なんだよ、という話でしょうか?

うむ、ここでは、前者のような気がします。

 

読み進めます。

別の例もあげてみましょう。今、部屋の中で多くのものを見ている人が窓を開け、外を見ることを想像してみてください。もし。このときに、「誰が見ているのだろう?実際に見ているのは窓だろうか、それとも人だろうか?」と問われるなら、その答えは、「窓は見るという能力を保持していない。人のみが見るのである」です。そこでさらに「窓なしに、人は外界のものを見ることができるのか?」と問われるなら、その答えは、「窓なしに壁を通して外のものを見ることは不可能である。窓を通してのみ見ることができる」となります。

 

私は勝手に家の外から窓が開いているところを目撃したシーンを想像しました。

 

家の窓が開いてる→窓が外を見ているのだろうか?それとも家の中にいる人が見ているのだろうか?

 

家の中にいる人が、窓を通して、外を見ている、ということになりますね。

 

ということは。

 

「眼=窓」「見ること=家の中にいる人が窓を通して外をみている」ということですね。

で、あたりまえのことですが、窓なくして外を見ることはできません。

 

続けます

「見ること」でも、「眼」と「見ること」という二つの別個の実在があるのです。「眼」は「見ること」ではなく、「見ること」もまた「眼」ではありません。さらには、「眼」なしに「見る」という活動も成り立ちません。実際のところ、「見ること」は「眼」によって生じるのです。

 

バリバリの私見です。

 

マハーシ長老は、家や窓の例えで、これでもかというくらいナーマルーパの説明をして下さります。

 

それだけ、ナーマルーパはとても大切だ、ということです。

 

こうやって読むぶんには「当たり前じゃん」などと思ってしまいそうになりますが、普段の生活ではナーマルーパを実感することなく煩悩に振り回されて生きている、というのが実情なのではないでしょうか?

 

勝手に考えて恐縮ですけど。

 

マハーシ長老は、「ナーマルーパしかないですよ、他に何があるの?、あとは涅槃しかないですよ」とおしゃっているような気がします。

 

「ナーマルーパ」と「涅槃」しかないのに、我々は煩悩に染まりきって、それ以外のことばかりしてますね。

 

 

マハーシ長老のお話を聞いて「当たり前じゃん」と思うくせに、当たり前のことをやらないのが私です、痛いところを突かれているような気がします。

 

まだまだナーマルーパのお話は続きます。