oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

017【見ること】が続きます 第一部 理論編 智慧の発展 『ヴィパッサナー瞑想 マハーシ長老(著)』

引用

今や、私たちがものを見る瞬間ごとに色(眼)と名(見ること)という二つの別個の要素だけがあることが明らかになりました。付け加えるなら、色(ルーパ)には「見る対象」という第三の要素が存在します。私たちの身体の外に「見る対象」があるとき、身体の内に「見る対象」が覚知されます。このように「見る対象」を付け加えることによって、三つの要素があることになります。「眼」と「見る対象」は二つの色(ルーパ)であり、「見ること」は名(ナーマ)です。色(ルーパ)である「眼」と「見る対象」には、対象を知るという能力がありません。それに対し、名である「見ること」は、「見る対象」がどのようなものであるかを見て、それを知覚することができます。

このようにして、私たちがものを見るときには、二つの色(ルーパ)の要素と名(ナーマ)だけが存在すると明らかになりました。私たちが通常「見ること」として理解しているのは、この二つの色(ナーマ)の要素と名(ナーマ)が生じることなのです。

 

さて、せっかくですので、下記の本を読みます。

なんていいますか、副読本のように使っています。

 

 

引用

「ナーマとルーパと二種類ある」と分析しよう

人間にある問題というのは、「しっかり分析しないこと」なのです。「耳で聞こえる」とか「目で見える」などという程度の大雑把な分析しかしません。真実を理解しようとするなら、「もうこれ以上は分析できない」というところまで。とことん徹底的に分析しなければいけません。初期仏教はその態度を取っています。とことん分析して、どこまでも分析してみるのです。

分析することは、「細かいことにこだわる」とか「しつこい性格」などという悪いことではありません。分析する人こそが、どのようにものが一緒になって行動するとか、どのように新しい現象が現れるかという、ものの関連性を理解するのです、「ああ、これとこれを混ぜたら、こういうことなるのか」と発見できるのです。例えば、醤油の味や塩の味や砂糖の味をまったく知らない人が、それらを合わせておいしい味が作れますか?一つ一つの味をしっかり知っているから、「もうちょっと塩を入れたほうがよい」とか「もうちょっと砂糖を入れたほうがよい」と分かるのです。我々は一つ一つの味をしっかり知っているから、組み合わせができます。このように、何かを知ろうと思って分析するなら、大雑把な分析ではなくて、とことん分析することが必要になります。

 

さすがスマナサーラ長老、わかりやすいです。

 

ふだんの生活では、ナーマルーパをごっちゃにしてます、ごっちゃにした状態で、物事に接しても、けっきょくのところ堂々巡りで、わからないまま終わるのではないでしょうか。

 

スマナサーラ長老の解説は続きます。

 

そういうことで、一般の世界では「目」といったとたんに、ナーマとルーパを始めから混ぜて、「目です」と言う。「私」と言ったとたん、みんな、この物体的な身体と心をまとめて「私ですよ」と言う。「ナーマのはたらきとルーパのはたらきと、二つの流れがある」ということを知らないのです。それを知ることが真理を知るためには大切なことになります。

なぜ人間が真理を悟っていないかというと、当たり前ですが、真理を知らないからです。なぜ知らないかといえば、「人間はナーマルーパをごちゃまぜにして考えているからだ」と仏教では指摘するのです。

 

うむむ

マハーシ長老の無駄のない直球文章と、スマナサーラ長老の縦横無尽の解説のおかげで、ナーマルーパの理解がますます深まりそうな気がします。

 

 

ここでは、ナーマルーパを分析すると、ナーマがあって、ルーパは二つあると理解しました。

 

で、スマナサーラ長老からは、仏教を学ぶ姿勢というか態度を教わりました。

 

「理屈っぽいヤツ」と言われようが、「しつこい分析主義者」がいいみたい。

「ナーマルーパと自我をごちゃまぜにしているのに気づかない人」よりまだマシな気がしますから・・。

 

 

 

やっぱり副読本が必要な本でした。