oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

019【有身見】 第一部 理論編 智慧の発展 『ヴィパッサナー瞑想 マハーシ長老(著)』

引用

このこと(現実に存在する名色を自己と見做す間違った見解、信念)をより明確に理解するため、間違った見解や信念に固執している態度についてさらに検討してみましょう。私たちがものを見るときに、実際に存在するものは「眼」であり、「見る対象」であり(両方とも色)、そして「見ること」(名)です。ですから、本当は名(ナーマ)と色(ルーパ)こそが実在なのですが、それでもなお世間の人々はこれらの要素の集まりが私、我であり、生命体であるという見解に執着しています。彼らは「見ているのは、私だ」「見られているのは、私だ」「私が、自分自身の身体を見る」などと考えます。そして、この間違った見解から、見るという単純な行為を我と見做すようになります。これが、我に対する誤った見解、有身見です。

 

ここでのキーワードは「有身見」になります。

10種類の煩悩の一つになります。

お釈迦様は曖昧な言い方はしないで「結」として煩悩を説いてます。

 

ちなみに10結は、

 

有身見

 

 

戒禁取

 

欲愛

 

激怒

 

色貪

 

無色貪

 

 

掉挙

 

10

無明

 

 

で、下記の本を参照します。

 

 

引用

有身見(サッカーヤ ディッティ)のサッカーヤとは、パーリ語で、実体として何かがあることを意味する。ディッティは概念、見解のこと。サッカーヤ ディッティとは「私」という概念が実体のあるものだと顛倒し、身体や心が自分のものだと勘違いしてしまうことである。

 

バリバリの私見で恐縮です。

 

マハーシ長老の言う通り、ものを見るときには、名(ナーマ)が一つ、色(ルーパ)が二つあるだけです、ここにはどこにも|自分」とか「我」はないですけど、普段の生活では私は顛倒しまくって「私、私、私」の連続です。

 

「身体や心は自分のものだ」と勘違いしまくって生きています。

 

でも、お釈迦様やマハーシ長老は、「その見解はアウト!」とNGを出しています。

 

で、特に仏教を知り始めたばかりの方には、「なぜアウトなの?、自分の身体だからいいじゃん、特に普段の生活にも支障がないし」という声が聞こえそうです。

 

こういった疑問に答えるため、多くのお坊様がわかりやすい説法を試みるのだと思います。

 

この本では、マハーシ長老はストレートに、この有身見から自由にならない限り、輪廻を終わりにすることができませんよ、とおしゃってます。

 

ここでは、私もあれやこれや考えるのはやめて、

「ナーマルーパを分析することで、煩悩の一つである有身見がわかる」、この本を読み進めるにあたって、この理解でいいんじゃないかと思っています。

 

で、この有身見の理解は、これから進むヴィパッサナー瞑想の実践の基礎になるのでしょうね。

 

とは言いつつもまだ「有身見」の説明は続きます。