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テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

022【有身見】が続きます。 第一部 理論編 智慧の発展 『ヴィパッサナー瞑想 マハーシ長老(著)』

認識の際に、「名」が一つ、「色」が二つあるとわかりました。

本当はこの三つしかないのですけど、この三つを間違えて我のものだと誤った認識をしてしまいます。

で、自我に関する間違った見解で有身見が生じます。

有身見から渇望や、執着という煩悩が起きます。

煩悩が起きると輪廻の再生を引き起こします。

 

マハーシ長老は下記の通りこれまでのお話をしめくくります。

引用

その点で(ヴィパッサナー瞑想を実践するという目的で)、私たちがものを見るすべての場合において、それを念じ、気づくという実践法は大変シンプルなものです。私たちは、ものを見るすべての場合に「見ている、見ている」と気づくべきです。「念じる」「観察する」「気づく」という用語は心を対象に留め、それを明確に知り続けることを意味します。

 

これまでの理論だけのお話をヴィパッサナーの実践へとつなげていきます。

 

続けます

心を対象に留め、そして見るという行為が「見ている、見ている」と念じられるとき、視野に入った物体、眼識、対象を見る場である眼の三者に気づくことができるのです。もし私たちがこの三つのうちどれか一つでも明白に気づくことができるのなら、、それを観察という目的のために活用することができるでしょう。けれども、もし、そうでないのなら、この見るという行為から有身見が生じてしまいます。

 

理論編とは言いつつも、もう実践に誘っていますね。

「名一つ」「色二つ」この合計3つに気づくようにすればいいのですね。

この3つのうち、一つにでも気づいていれば、観察はうまくいっているのでしょう。

一つに気づけないようでしたら、もう有身見が発生しているのですね。

 

でも、日常を振り返ると、有身見に覆われた生活をしてますね、「俺が、俺が」と。

 

瞑想やってるときでも、油断してると、あっという間に有身見に覆われて、アッというまの煩悩三昧状態になりますね。

 

でも、ここで、名色、有身見の原理を理解して、日常の生活や瞑想実践に生かしていくことが大事なのではないでしょうか。

 

マハーシ長老は以下の通り有身見のお話を締めくくります。

有身見とは、自らを人であるとか、人に属するものであると見做す考えであり、また、それを常住であり、好ましく、我であるとするものです。この有身見は、渇望や執着という煩悩を引き起こします。そして、この煩悩は次々と素早く行為を起こし、さらにその行為は私たちに新しい存在としての再生をもたらします。

このようにして、縁起のプロセスは作用し、危険な輪廻の輪は絶え間なく回るのです。輪廻の輪を回すことを防ぐために、私たちはものを見るすべての場合において「見ている、見ている」と念じることが必要なのです。

 

この本での「念じる」という意味を巻末の用語解説では

本書では「念じる」「観察する」「気づく」という用語は、同じ意味で用いられている。心を対象に留め、それを明確に知り続けること。

という意味です。

 

上記のお話で私なりに有身見は納得しました。

 

 

理論編とは言いつつも、「なぜヴィパッサナー瞑想をしなければならないか?」その原理がわかるというか、必然性がわかります、実践編はまだまだ先ですけど、「なぜヴィパッサナー瞑想をしなければならないか?」をもっともっと詳しくお話してくださいます。

 

 

実践編のような理論編はまだまだ続きます。