oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

023 これまでの復習 第一部 理論編 智慧の発展 『ヴィパッサナー瞑想 マハーシ長老(著)』

自分なりに復習です。

 

最初に戒定慧の重要性を説かれましたが、特に「戒」は大事ですけど、戒を単独で実践するのも賢明ではないので、定の実践も大事。

戒と定を実践することで慧も養われ、最終的には出世間的な戒定慧を目指しましょう。

 

で、この智慧を養うためには、ナーマルーパの観察が不可欠です。

 

例えば「見る」ことには、

ルーパが二つ→「見るための眼」と「見る対象」

ナーマが一つ→「「見ること」

以上3つしかありません、どこに「我」があるのでしょうか?

 

ここで、「自分の眼」とか「私は見ている」なんて思ったら「有身見」が発生しているのかもしれません。

 

有身見とは、「自らを人であるとか、人に属するものであると見做す考えであり、また、それを常住であり、好ましく、我であるとするものです」

 

で、この有身見から、渇望とかの煩悩が次々と引き起こされ、次の再生が生じてしまうのですね。

 

永遠不滅の我なんてあれば、輪廻はありえませんもんね。

 

煩悩とか再生が嫌だったら、それを乗り越える最短の方法はヴィパッサナーです。

 

引用

その点で、私たちがものを見る全ての場合において、それを念じ、気づくという実践法は大変シンプルなものです。私たちはものを見るすべての場合に「見ている、見ている」と気づくべきです。「念じる」「観察する」「気づく」という用語は心を対象に留め、それを明確に知り続けることを意味します。

 

結局のところ、実践法はすごくシンプルです。

 

仏教の目的は、とっとと再生から離れることなので、マハーシ長老は、これ以上はないくらいシンプルにその方法を私たちに語りかけます。

 

それにしても、私も含めて我々はこのシンプルな実践法をやろうとはしませんね、まあ、人間は有身見の感覚に慣れていて、これが好ましいと思っているのですね、有身見を表す一番わかりやすい言葉は「自分が正しい」かな、と思います。

 

だから、ヴィパッサナー瞑想は、人間の一番痛い部分を突いてくるのでしょうね、有身見が大好きで、根本的に瞑想は嫌いなんでしょうね。

 

 

 

いろんな仏教書がありますけど、あれやこれやたくさん書いてあるのもありますが、知りたいことが一直線に書いてあるのは、マハーシ長老のこの本かな、と思います。

 

知りたいことが一直線の本です。