oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

025 【触れる感覚など】 第一部 理論編 智慧の発展 『ヴィパッサナー瞑想 マハーシ長老(著)』

身体を動かすときに生じる「触れる感覚」についてのお話が続きます。

 

引用

手、足などを曲げ、伸ばし、動かす際に生じるたくさんの「触れる感覚」を念じることに関しても、述べたほうがよいかもしれません。実際は、名(ナーマ)が身体を動かすこと、伸ばすこと、曲げることを欲するため、色(ルーパ)の「動かす」「伸ばす」「曲げる」という活動が続けて生じるのです(これらの出来事を瞑想修行を始めた最初から念じることは、不可能かもしれません。実践を始めてしばらくの後でなら、それは可能となります。ここでは一般論としての記述になります)

 

初心者の方は「触れる感覚」を念じることで手いっぱいで、身体を動かすこと、伸ばすこと、曲げることを念じるまでには手が回らない、ということなのでしょうか。

 

うむむむ、ということは、瞑想って、かなり「忙しい」行為なのでしょうね。

 

スマナサーラ長老の法話でも、「瞑想は忙しい」というお話を聞いたような気がします。

 

お話は続きます。

私たちの身体を動かしたり、姿勢を変えたりするすべての行動は、名(ナーマ)によってなされます。名(ナーマ)が身体を曲げようと意図するとき、それは手や足の内的な動きとして生じます。名(ナーマ)が身体を伸ばしたり、動かしたりしようと意図するとき、それは外的な動きか、あちこちへの動きとして生じます。それは生じるか、生じたまさにそのとき、すぐに消え去り、その後になって、私たちは念じることになります。

 

うむ、自分で意図した動きは「内的な動き」

「外的な動き」というと、外部から押されたり、引っ張られたりすることを言うのでしょうか?

 

いずれにせよ、「内的な動き」「外的な動き」で、「動き」を念じなくてはいけないのですね、動きは生じますが、動いて止まれば、それで終了です、それはあっというまです、実際の感覚として、実況中継というより、実況後追い中継になるのでしょうね。

 

例えば、歩く瞑想の際、右足上げます、右足動かします、右足つけます、とやってますけど、実際には身体の動きが先で、そのあとを念じていることになる、ということなのでしょうね。

 

うむ、これに「触れる感覚」が加わるのですから、本当にヴィパッサナー瞑想は忙しいのですね、妄想の暇なんて、本当は無いのだと思います。

 

で、続きます。

曲げる、伸ばすなどのあらゆる身体的な活動のすべての場合において、まず名(ナーマ)のひと続きの意図が生じ、そしてそれが、手や足の凝り、曲げる、伸ばすなどのあちこちの動きとなるひと続きの色(ルーパ)の活動を引き起こします。これらの活動は、他の色(ルーパ)の要素と、身(カーヤ)に対して生じます。

 

 

「身体を動かす、身体が動くってこういうことじゃん」、ということですね。

細かく、かといってこれ以上ないくらいシンプルにマハーシ長老はお話します。

 

続きます

そして、物質的な活動と身の間のすべての接触に対して、触れる感覚を感じ、知覚する身識が生じます。これらのケースの場合、物質的な活動、身、身識といった三者の中で優勢な要素を占めるのが、物質的な活動であるというのは明白です。

 

意図(ナーマ)で身体を動かしますけど、結局、物理的に生じていることは「物質的な活動と身の間のすべての接触」だけです、で生じた接触を念じている(ナーマ)だけです。

 

物理的に生じていることが優勢だし、これを念じることが瞑想なのでしょうね。

 

続きます。

私たちが瞑想実践する際には、優勢な要素を念じる必要があります。もし、そうしなければ、これらの活動を「私」が行っているとか、「私が曲げている」「私が伸ばしている」「私の手」「私の足」といった間違った感覚が確実に生じるでしょう。この「曲げている」「伸ばしている」「動いている」という実践は、これらの間違った見解を取り除くために行うのです。

 

ナーマはただのナーマだし、ルーパはただのルーパだし、本当はナーマルーパだけしかなくて、実際やってみると物理的な感覚を念じるだけで、手いっぱいで忙しいはずなのに・・・なぜか妄想しているのですね・・私も・・・。

 

次回は、心の活動(考える、妄想する)のお話になります。

 

 

 

瞑想は忙しいのですよ、なんでありもしない「私」なんて出てくるの?と改めて、徹底的に教えてくれる本です。