oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

【番外】スリランカの少女が父に語るブッダの教え(2)

下記にリンクより

j-theravada.net

2番目の法話

「すべては心象として捉えるべき」になります。

 

お布施のお話ですね。

 

「お布施」を例えにして心のお話があります。

 

凡夫の私なんか、お布施というと、「なんかしなくちゃいけない」なんて思ってしまったり、金額を気にしたり、お布施したいお坊様を選んだり・・・。

 

人によっては、ふだん仏教の実践なんてしてないから、せめてお布施だけはたくさんやっておこう、というのもあるみたいです。

 

この法話によると、これら全部は「心象」なのですね。

 

引用

父:そうしたら、その凡夫がお布施するのと、聖者がお布施する場合との違いは何ですか? それぞれどんな重要性(価値)があるの?

娘:例えば、凡夫としてお父さんがお寺の小さな沙弥たちに、その沙弥たちが好きなお菓子やチョコレートをお布施しようと思って持って行ったとき、その沙弥たちが不在だったとしましょう。同様に、そのお寺の住職のお坊さんに対して何かお布施をもって行ったら、住職のお坊さんが不在だったとしましょう。そうしたら、そこで心に残念な気持ち(衝突、落胆)が起きますね。

父:あ~、なるほど。確かにそのときは残念な気持ちが起きてしまいますね。それで?

娘:ですから、お布施という善行為が目的だったのに、そこで残念な気持ちを発生させて(心の衝突を起こして)、結果的に善行為ではなく悪行為をしているのです。

父:あ~、なるほど! そうしたら、お布施するときには聖者がお布施するような形で、「これは誰々さんに〔差し上げる〕、いくらいくらの、このぐらいの高価なものだ」云々というふうに捉えないで、ここには〈私〉というのもなく、あるのはすべてただの〈心象(citta-dharmatā)〉だと理解しながら、手放す(執着を無くす)ことを訓練する意味で、以上のことを理解した清らかな心でお布施することが本来のお布施(聖者のお布施)である、ということですね。

う~ん? え~と、いや、質問は何もない……○○ちゃんの言うことがよくわかりました。

 

 

うむむ、お布施という行為に、「自分」とか「我」が入ると、けっきょく自分の心を汚すことになりそうですね。

 

で、すべてのことは「心象」、心の現象ということで・・・。

 

心の現象として観察して、「自分が・・・・」「自分が・・・」の貪瞋痴に成長させないことが大事ですね。

 

で、このお父さんの言うとおり、「お布施は手放す(執着を無くす)訓練」ですね。

 

 

改めて、娘さんのお話を上手に引き出す、このお父さんの接し方は立派だと思います。