oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

026【心】 第一部 理論編『ヴィパッサナー瞑想 マハーシ長老(著)』

「考えている」「妄想している」とは、どういうことなのか、の話になります。

 

引用

私たちの心を基盤として、考える、妄想するなどの連続した心の活動が生じます。また、一般的な言い方をするのなら、身体によって一連の精神的な活動が生じるともいえます。しかし、本当は、それらのものは、名(ナーマ)と色(ルーパ)、つまり心を基盤とした色(ルーパ)、そして、考える、妄想するなどの名(ナーマ)の複合物なのです。ですから、私たちは名(ナーマ)と色(ルーパ)を明晰に気づくことができるようになるために、自分が考え事をしていたり、妄想をした際には「考えている」「妄想している」などと念じる必要があります。

 

「朝から不整脈だなあ、不安だなあ、なにかあったらどうしよう」

心臓を含む身体全部はルーパですね、

心臓を感じるのはナーマです。

心臓を感じて不安になるのはナーマです。

「不安」だと感じたり、「なにかあったら」、と思うのは「考え」とか「妄想」なのでしょうね。

 

マハーシ長老は、上記のような一連の活動はナーマルーパの複合物であるとおしゃっていいます、ということは観察や気づきによってナーマルーパを明晰に気づくことができるということですね。

 

当たり前ですけど、ナーマルーパがお互い混ざって溶け合うようなことはないです、というかあり得ないです、そんなことが起きたら、区別が難しくなりますから・・・、複合物とはいえなくなりますね。

 

「自分の身体」、「自分の考え」と思うのは、「自分、自我」とナーマルーパをくっついていると錯覚するからなんでしょうね、もしくは無意識に「くっつけている」のかもしれません。

 

ここにあるのはナーマルーパだけなのに、これに無理矢理「自分、自我」をくっつけてあれやこれや考えたり、妄想したりするのでしょうね。

 

最初から無い「自分、自我」をもってきてくっつけるのですから、道理に無理がありますね。

 

道理が無いので、貪瞋痴のノンストップ状態になりそうです。

 

ここでマハーシ長老は、ナーマルーパーを観察することが一番ですけど、「自分、自我」をくっつけてるナーマルーパとか、「(自分の)考え」、「(自分の)妄想」について念じてみなさい、と説かれます。

 

本では「念じれば妄想は消えます」とか、「妄想がいやなら念じなさい」なんて書いてないです、ここでやることは、ひたすら明晰にナーマルーパを「気づく」「念じる」「観察」することです。

 

ヴィパッサナー瞑想は、このナーマルーパの複合物に明晰に気づくことなんでしょうね。

 

 

 

 

引用を続けます。

ある程度の期間、このように自分の心を念じる実践を続けていくと、定(サマーディ)が養われてくる可能性があります。そのとき、瞑想実践者は、もはや自分の心がさ迷わず、対象に対して留まり続けるということに気づくでしょう。そして、留まり続ける力と同時に、気づき(サティ)の力も相当強くなっていることと思います。そうなると、気づきを実践するあらゆる場面において、私たちは名(ナーマ)と色(ルーパ)の二つのプロセス(対象を念じる心の状態「名}と対象「色」という同時に生じる二つのセット)だけがあるのだとわかるようになります。

 

私はこの段階をまったく自覚できていませんけど、上記によると、いよいよ「定(サマーディ)」が育ってきたのですね。

 

明晰にナーマルーパに気づく力が備わってきたら、うまく言えませんけど、仏教実践がいい感じに進んでいるということですね。

 

まだまだ「理論編」ですけど、定(サマーディ)の醸成は、仏教徒の目指すべき目標ですね。

 

 

当たり前ですけど、現代生活を楽に生きるためのライフハック的な本ではありません、そういった瞑想をお探しの方は他をあたってください。