oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

027【定から無常、苦、無我】 第一部 理論編『ヴィパッサナー瞑想 マハーシ長老(著)』

理論編のお話はそろそろ終わりますけど、マハーシ長老はすごく大事なことをあっさり説明してます。

 

ちょっとまとめると

 

「ナーマルーパを明晰に気づくこと」や自分が考えごとや妄想しているときは「考えている」「妄想している」と念じる。

上記のことをある程度の期間、やっていると「定」が養われてくる可能性があります。

ナーマルーパの二つのプロセスだけがあるのだとわかるようになります。

 

で、マハーシ長老はあっさりと次の段階のお話をします。

 

引用

さらに、ある程度の期間、瞑想の実践を進めていくと、永続するものは何もなく、あらゆる現象は無常であると理解するようになります。毎瞬ごとに、新たな現象が生じています。その一つ一つを、それが生じたときに念じてください。何が生じても、それは即座に滅し、そしてまたすぐに新たな現象は生じます。そしてまた、その現象を念じると、それはすぐに滅します。

 

「定」が養われてくると、生滅のプロセスを理解できるようになるのですね。

 

私はまだ「定」にさえ達していないので、「うむ、定が生じると、生滅がわかるようになるのだな」と憶えておくしかないかな、というところです。

 

続けます

このように生滅のプロセスが続いていくことは、常住なものは何もないということを明らかに示しています。現象が即座に生じては滅するということを観察することによって、私たちは「永遠に続くものは何もない」ということを理解するのです。このことを、無常随観智といいます。

 

ここから

無常随観智

苦随観智

無我随観智

のお話が続くのですけど、マハーシ長老の説明は2ページちょっとで終わります。

無常、苦、無我、ってのは、仏教ではとても大事なことですけど、いつも文字だけで、概念だけで、本だけで接するのではなくて、実際、瞑想実践の「観察」で理解したほうがバリバリ自分のためになるような気がします。

 

勝手な解釈で申し訳ないですけど、言葉の通りですもんね。

 

無常を観ることによって生じる智

苦を観ることによって生じる智

無我を観ることによって生じる智

 

続けます、次は苦随観智になります。

そして、瞑想実践者は実践を続けることによって「生じては滅するものは、自分の願ったようにはならない」ということも理解します。このことは、私たちに苦に対する智慧である苦随観智をもたらします。さらに、瞑想実践者が通常、だるさ、暑さ、痛みといった身体に多くの不快な感覚を感じ、それらを念じるとき、この身体は苦の塊であるという理解が生まれます。これもまた苦に対する智慧だといえます。

 

無常と苦は、自分の思い通りにならないという点でも同じですね、無常がわかると苦もわかります。

 

続けます、次は無我随観智になります。

そして名(ナーマ)、色(ルーパ)の要素が生じた際に、それらを念じるたびに、「名と色の要素は、それらが各自持つ性質によって生じるのであり、私たちがそうしてほしいと願ったから生じるのではない」という理解が生まれます。そこから瞑想実践者は「名と色は要素にすぎない、それをコントロールすることはできない。それは人とか生命体といえるようなものではない」ということを理解します。これが無我随観智です。

 

ナーマルーパを観察することで、「ん?どこに自分ってあるの?どこにもないじゃん」と気づくことでこの智が育っていくのでしょう。

 

 

まとめるとこんな感じになるのでしょうか。

 

「ナーマルーパを明晰に気づくこと」や自分が考えごとや妄想しているときは「考えている」「妄想している」と念じる。

上記のことをある程度の期間、やっていると「定」が養われてくる可能性があります。

ナーマルーパの二つのプロセスだけがあるのだとわかるようになります。

生滅が理解できるようになります(無常随観智)

無我の理解にも進めます(無我随観智)

苦もわかるようになります(苦随観智)

 

 

観察実践で「無常、苦、無我」が理解できるって本当はすごいことなんですけど、マハーシ長老は、このすごいことをわかりやすく簡潔に説明してくれました。

 

 

 

机上の無常、苦、無我の理解より、観察実践でやってみませんか?と誘ってくれる本です。