「見ること」や「聞くこと」は同時に生じていなくて、一度に一つのことしか生じていません。
で、どうすれば、それを観察できるのでしょうか?
引用を続けます
見ることや聞くことというものは、その対象に注意が与えられたときにのみ生じます。もし、私たちが注意を与えないならば、対象はいかなる視覚にも音にもならず、見ること、聞くことは生じずに時が過ぎていくでしょう。通常、嗅ぐことが生じるのは、まれです。味わうことは、私たちがものを食べている間にのみ生じます。
見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうことの場合、瞑想実践者はそれらが生じたときにのみ、気づくことができます。それに対して、身体の感覚は常にあるものです。通常、身体の感覚は、明確かつ常に存在しているものです。私たちが座っている間にも、身体のこわばりが触れていると明白に感じられます。
ですから、座っている姿勢に対しても、気づきは集中して注がれるべきであり、その際は、「座っている、座っている、座っている」と気づくようにしてください。
うむ、ポイントは「気づき」ですね。
見ること、聞くことは、気づいているときに生じます。
で、気づきは一度に一つのことしかできないのですね。
日常生活では、よく「妄想」とか「思考」に覆われてしまいますけど。
この覆われた状態って「気づき」が不在の状態なんでしょうね。
で、気づきによって、妄想に気づいて、妄想が生じていることに気づくのでしょうね。
気づいた時点で、妄想に覆われた状態を野放しにするのは仏教徒らしくないので、妄想に対する気づきを継続すべきですね、悪い結果にはならないと思います。
で、マハーシ長老は、ここで更なる実践へと誘ってくださいます。
「見ること」「聞くこと」「嗅ぐこと」「味わうこと」は、気づいたときに生じますけど、それに対して身体の感覚は常にあり、わかりやすいものだと説かれます。
ですから、常に生じている「身体の感覚」から始めてはどうですか?とおしゃっているような気がします。
身体の感覚は常にあるのでいつでも気づきを入れることができます、いろいろな気づきの基礎練習にもなりそうです。
初心者はまず、身体の感覚で、しっかり基礎練習を積んで、その基礎を作ることで「見ること」「聞くこと」、でやっかいな「妄想すること」「思考すること」にもスムースに気づきを入れることができるのではないでしょうか?
私事ですけど、最近、肉体労働が多いので、年齢相応に筋肉痛を感じます、若い頃は気にしなかったですけど、なんていいますか、身体の観察には「よいお年頃」になったのでしょうか?
仏教の実践は、何歳でも、いつでも、どこでも、すぐに始められる、と教えてくれる本です。