oldmanbuddhist

テーラワーダ仏教を地味に勉強してます、そのメモ書きになります、きちんと学びたい方には参考にならないです、ご了承願います。

ちょっと脱線、耳や目の話

ちょっと脱線します。

 

最近、ちょっと興味があって補聴器の勉強をしています。

 

そこで、基本的なこととして、耳の仕組み 聴覚伝導路のことを学んだのですけど、音の伝わり方というか、感じ方は。

 

外耳(耳介、外耳道)

まずは外界の音→空気の振動を捉えます。

中耳(鼓膜、耳小骨、耳管)

空気の振動が、鼓膜や耳小骨によって機械振動に変換されます。

内耳(蝸牛)

機械振動が、内部のリンパ液により液体振動となり

この液体振動がイオンチャンネルを開き電気信号に変換されます。

聴神経・脳

電気信号を感じることになります。

 

ということは、我々が聞いていると感じている音は「電気信号」なのですね。

 

で、目の場合、視覚も調べました。

うむ、光の情報が網膜で電気信号に変換されて視神経が脳に届けるのですね。

 

 

うむむ、ここから私の勝手な意見になるのですけど、我々が得ている感覚って、脳が受け取っている電気信号になるのですね。

 

直に、外界の空気の振動や、光を感じているわけではない、電気信号に変換されてるものを脳が感じているわけです。

 

以前、マハーシ長老の本で「見る」ことのお話がありました。

 

「見る」をナーマルーパで分解すると、「眼」と「見る対象」と「見ること」があります。

 

「眼」は外界の光を受容する器官です。

その内容は「見る対象」になります。

で、「見ること」はナーマになります。

 

 

で、ここで独断と偏見で恐縮ですけど。

 

「眼」と「見る対象」は、外界の事象で光の情報になります。

で「見ること」は、光の情報が電気信号に変換され、脳がそれを受け取っている状態かと思われます。

 

うむ、脳が感じているのは電気信号なので、本当の外界の状態ではないかもしれません。

 

脳はけっこう捏造もしますし・・・。

 

で、「眼」と「見る対象」はルーパ、「見ること」はナーマになります、話はこれで終わりなのですけど、感覚は電気信号となって脳に行きます、脳ってけっこう勝手なことをしますので、ここで「私が見ている」になってしまうことが多いのではないでしょうか。

 

音もそうですね、本当の外界の空気の振動なんて脳は知りません、変換された電気信号を感じているだけです、感じるだけならいいですけど「あの音だ」とか「この音嫌い」とか、好き勝手なことを脳は始めます。

 

眼耳鼻舌身は、電気信号として脳が知覚しますけど、本当の外界の状態って脳は知らなくて、過去の情報を基にけっこう捏造しているのではないでしょうか?

 

ということは、瞑想って、この捏造というか、勝手なことをする脳に向かい合う行為になりますね。

 

いま、マハーシ長老の本で『「膨らみ」「縮み」を念じる』をやっているところですけど、脳はいろいろな電気信号を自分の都合のいいように捏造しますので、この物理的な「膨らみ」「縮み」は、捏造が起きにくい瞑想対象してはとてもわかりやすくいいのではないでしょうか。

 

あと、「歩く瞑想」もけっこう物理的です、わかりやすいです。

 

補聴器の勉強を通じて、物理的でわかりやすいもののほうが瞑想対象として、いいのでは・・・、勝手に思っているところです。